• ZERO management
  • カーボンニュートラルをZEROから考えます。
  • HOME
  • 記事
  • ZERO management
  • 船井電機、わんぱく企業が消える 優等生好きの日本が忘れた「何がなんでも世界で勝つ」が惜しい

船井電機、わんぱく企業が消える 優等生好きの日本が忘れた「何がなんでも世界で勝つ」が惜しい

 船井電機は創業者の船井哲良氏が1951年に始めたミシンの卸問屋が祖業です。その後、当時の人気商品だったトランジスタラジオに手を広げ、1961年に船井電機を設立。他メーカーのブランドとして販売するOEM(相手先ブランドによる生産)を軸に業績を拡大しました。

 その真骨頂は「自社技術に自信を持って突っ走る」。例えば1970年代、日本製品が世界の映像機器を支配する契機になったVTR。ソニーがベータ、日本ビクターと松下電器産業がVHSと異なる規格で開発し、世界シェアを争いましたが、船井電機は8ミリビデオに倣ったCVC規格の小型ビデオカセットを独自に開発し、キヤノンの携帯用ビデオデッキとしてOEM供給しました。

 結果は惨敗でしたが、へこたれる船井社長ではありません。ソニーと世界標準の規格争いを続けるVHS規格を勝ち馬として選び、世界初と銘打った「再生専用」のビデオデッキを開発し、発売。VTRの普及で家庭用レンタルビデオ市場は広がっていましたから、世界的大ヒットに。その勢いでラジオに続く家電の王様となったテレビへ進出。映像機器分野を拡大し続けますが、その競争力はあくまでも低価格。韓国メーカーと互角に戦い、蹴散らすのですから凄い。

 OEMもフィリップスなど欧米の有名ブランド、ダイエー、イオンなど国内外のスーパー、ディスカウントストアから受注し、販売台数をどんどん増やしていきます。相手など見境なく数量を最優先する貪欲さに目を奪われますが、世界シェアを拡大しながら低価格でも収益を高め、取扱製品をさらに増やしていく船井哲良氏が築き上げた躍進のビジネスモデルといって良いでしょう。

北米で頂点を極める

 その頂点は世界最大のスーパー、ウォルマートと取引開始した1999年でしょうか。「毎日、お買い得」をキャッチフレーズにしたウォルマートで激安のテレビ、VTRなどを発売し、北米のシェアを一気に高めます。当時、ヒットの理由を米国人に取材したエピソードを忘れられません。ソニーなど日本メーカーは高画質を売りにテレビを販売していたが、それは勘違いだというのです。

 「ウォルマートの客はテレビを買ったら、バスルームに置くんだ。シャワーを浴びながら、視聴する。テレビが濡れて故障するかって。故障したらまた買い替えるだけ。テレビは消耗品なんだ」と説明します。その真偽は不明ですが、船井電機の激安テレビがヒットした理由に納得したのを覚えています。

 米国人のニーズをしっかり捉えたからなのでしょう。船井電機はついに北米などで家電市場を制覇し、船井社長は日本人として初めて経済誌フォーブスの長者番付に掲載されたほど。当時、船井社長が記者会見で次々と繰り出す製品、提携を語る時の目の輝きを忘れられません。

 2000年代に入って家電の世界市場の主導権は韓国や中国に移り、欧米と手を組んて販売シェアを伸ばす船井電機の経営戦略は翻弄され始めます。事業内容の再編をしながら、収益力の維持を目指しますが、激しい価格競争を繰り広げる家電市場でかつての勢いは確実に失せていきました。

ヤマダとの有機液晶テレビに意地を見る

 最後に「船井電機らしい」と思ったのは2017年5月、ヤマダ電機と有機液晶テレビを発表した時でした。意地を見た思いです。

 2017年5月、船井電機の船越秀明社長とヤマダ電機の山田会長は新製品発表会で2018年に有機液晶テレビを発売すると表明。価格はライバルよりも割安に設定し、国内シェア5%を目指すと言います。船井電機の創業者である船井哲良取締役相談役も当初、発表会に出席予定だしたが、体調を崩して欠席しました。

 日本が開発した液晶テレビは、すでに韓国や台湾などアジア勢に奪われていました。しかし、船井電機はヤマダ電機と組んで有機液晶テレビを投入し、シェアを奪回すると意気込みます。そんな実力が残っているのかと思ったものですが、船井電機ならできるかもと期待したのも事実です。その記者会見から2ヶ月後、創業者の船井哲良氏は2017年7月4日に90歳でお亡くなりになりました。船井電機にとって最後の輝きだったのかもしれません。

関連記事一覧

PAGE TOP