キリンとKIRINと麒麟②キリンとアサヒ 殿様はもう野武士と闘わない
アサヒを注文すると「住友の人ですか」
キリンビールがビール市場のシェア60%以上も握っていた時代があったのをご存知でしたか。そのころのアサヒビールはシェア10%。居酒屋に入って「ビールちょうだい」と注文すると、目の前には「キリンラガービール」のラベルがドンと置かれるのが酔っぱらいにとって常識。「アサヒに変えて」と頼んだら、困窮するアサヒビールの経営を支えていた住友銀行などの社員と勘違いされ「住友の人ですか」とたずねられたものです。
1987年、アサヒが「スーパードライ」を発売した頃から様相はガラリと変わります。よく取材でお会いしていたマツダの専務は経営支援する住友銀行から派遣されていましたが、一緒にお酒を飲んでいると「酒を飲むのも経営支援の仕事」と苦笑いしながらアサヒを注文していました。スーパードライが出現してからは一変。「ようやくビールを心から美味しく飲めるようになった」と喜んでいたのを覚えています。
スーパードライ登場で全てが一変
当時、日本経済は突然の円高で右往左往していましたが、まもなく、あのバブル経済に突入します。勤めていた新聞社で「バブル経済に浮かれ、将来への布石を忘れる巨大シェア企業の経営に警鐘を鳴らす」連載企画が持ち上がります。本紙1面週5回連載。かなり気合いが入っていた、はずでした。ところが編集局内から「こんなにバブっている時にとぼけた企画」との批判を浴び、連載は週3回に短縮(苦笑)。それは、ともかく連載企画に参加した私は早速、当時東京・原宿に本社があったキリンビールを訪ねました。
「いやあ、見通しが甘いなどの批判を浴びたことはありませんし、そういう会社じゃないですよ」。
「キリンはシェア低下を批判される取締役会ではない」
こう答えるのはキリンビールの営業担当の取締役。「アサヒビールの躍進が続き、シェアは60%から50%を割っています。営業戦略に落ち度があると取締役会で議論になりませんか」と訊ねた質問に対するコメントでした。構えはゆったり、表情は緩やか。担当役員として体面を保つためにあえて社内批判を隠しているという空気は感じません。むしろ質問の趣旨がわからないといった雰囲気を醸し出していました。「ビール業界の殿様は違う」。思わず、この言葉が出そうになりました。
キリンビールとアサヒビール。シェアの首位争いを演じる2社ですが、この首位争いに至るまでの過去を振り返ると、なんとか消滅を逃れ、その後は攻めて攻めまくるアサヒにシェアを食われ続けたキリン。キリンの不甲斐ない経営が浮き彫りなります。1980年代後半は捨てるものがない野武士が迫ってきたものの、大きな城郭に守られて鎮座する殿様は脅威を覚えてもどう闘って良いのかわからない。こんな感じの構図です。
成功体験を忘れられないキリン、攻めまくるアサヒ
なにしろキリンには強力な旗本、日本全国を仕切る大手酒問屋が控えていました。キリンの営業担当が走り回らなくても、問屋のビール担当が居酒屋に「ラガー」を押し込んでいきます。しかし、アサヒは攻めに転じたら一気に駆け抜ける住友グループ。主戦場はお客の好みを優先せざるを得ない居酒屋さん。過去の成功体験から抜け出せない旗本と白兵戦に強い野武士の闘い。スーパードライという業界最強の商品を持っているアサヒが優勢に展開するのは当然でした。
発売から10年あまりの1998年、ついにアサヒは45年ぶりにキリンを抜き去ります。アサヒのシェアは40・0%、キリンは37・7%。キリンのピークは1976年の63・8%ですから、26%も奪われました。アサヒはスーパードライ発売前年の1986年が10・5%。30%近いシェアを奪い返しました。産業史に残るシェア逆転の一つで、大学の経営学でよく取り上げられるケース・スタディに選ばれるのも肯けます。
スーパードライの誕生秘話はこれまでも多く語られていますので、ここでは省きますが、マツダ再建にも大きく貢献した住銀出身の村井勉社長が下ばかりを見るアサヒの社員を鼓舞してまとめ上げ、新製品開発に成功した慧眼と手腕は高く賞賛されるます。
アサヒの野武士精神にも敬意を表します。本社ビルを見てください。場所は利根川沿いの墨田区吾妻橋。田舎から出てきた私にはトンと理解できませんが、東京出身の人は「川向こう」と呼ぶ地域。そこに「社員の燃える心」を模したアイコンを掲げる新本社を建設します。ほとんどの人はその色合いもあって「OOコ」ビルと呼んでいました。でも、屁とも思いません。当時、華やかな原宿に本社を構えていたキリンとは全く対照的でした。