三菱飛行機元社長が語る日本の製造業の弱点 技術過信に囚われ、変革できない硬直性
ネット検索をしていたら、思わぬ記事を見つけました。三菱飛行機元社長の川井昭陽さんがテレビ愛知のインタビューで答えた内容を書き起こしたものでした。三菱飛行機の顛末はよくご存知でしょうから詳細は避けますが、国家プロジェクトとして1兆円を投じながらも、2023年2月に計画断念しました。
1兆円の国家プロジェクトを断念
日本の航空産業は第二次大戦の敗戦ですべてが廃棄され、プロペラジェットの「YS-11」で復活を果たしました。しかし、ジェットエンジン全盛の旅客機を支配する米ボーイングや欧州エアバスの2社ははるか遥かの遠い存在。戦前、戦闘機を製造した三菱重工業は子会社の三菱飛行機(MRJ)を通じて小型ジェット旅客機で世界の航空機の表舞台に立つはずでした。
MRJは親会社の三菱重工業を通じて知っていたので、川井さんは一度お会いしたい人物の1人でした。航空事業の主導権は親会社の三菱重工が握っていたわけですから、三菱航空機の元社長が語る当時の胸の内をどう受け止めるのか評価が分かれるかもしれません。ただ、設計・製造などの現場責任者としての息遣いから日本の製造業が直面する課題が浮き彫りなっているはずです。テレビ愛知の記事を参考に川井元社長のコメントを抜き出して、再読しました。
MRJは未体験ゾーンに迷い込む
川井さんはMRJの型式証明取得を通じて、日本の製造業がまだ知らない未体験ゾーンの恐ろしさを冷静に見つめています。製造をめざす飛行機は100席を下回る小型リージョナルジェットですが、製造に必要な部品点数は90万点を上回ります。日本が世界のトップに立った自動車は3〜5万点。自動車の経験が通用しません。
しかも、旅客機の安全性を証明する型式証明を離発着する国ごとに取得しなければ、その飛行機は使い物になりません。三菱重工は1980年代に開発したビジネスジェット機「MU-300」でFAA(アメリカ連邦航空局)から型式証明書を取得していますが、川井さんは米国のスタッフの助けを借りて得たもので、ほとんど経験がない日本人だけでは取れないと明言しています。
「これ(画像)が型式証明ですね。この1枚を取るために皆さん苦労しました」
「飛行機を作るのは、そんなに難しいわけではない。ただ型式証明を取る段階になるとそれは全然違う技術になりますから」「定石とか常道がこの世界にもあって『MU-300』(の型式証明)も日本人だけで取れたわけではなくて、経験豊富なアメリカ人の助けをいっぱい受けました。FAAから『この人はこの領域においてはFAAと同じ資格がある』ことを認定されている人がたくさんいます。その人たちの指示に従ってやっていました」「経験がなければ経験した人を連れていく以外はないなと。当時、頭に浮かんだ経験者がボーイングの人たちです。FAAと対等に話ができる、あるいはFAA以上の実力を持っている人がボーイングの中のOBなんです。そういうことを経験した人を連れていくことによって、その経験を日本の中に少しでも導入したいなと思いました。彼らは1年で(ボーイング777の型式証明を)取得していますからね、初飛行から」
より深刻な問題に立ち往生していたのが製造現場でした。「日本が国産はつのジョットエンジンの航空機を製造する」という思いが強すぎたのか、助っ人として米国などから招いた技術者とのコミュニケーションがうまくできていませんでした。90万点を超える部品を組み立てれば、航空機が完成するわけではないありません。自動車産業の3倍近い部品点数を体系的に調達するシステムなど米国の航空機産業が長年、蓄積した経験がスパイスのように加えられなければ、飛行機を製造し続けることはできません。
”外人の助っ人”と一体化できず
ところが日本人の設計・製造現場は助っ人としてMRJに乗り込んだ”外人部隊”と一体化できません。ただでさえ、日本の航空機はまだよちよち歩きで、これから独り立ちをめざす段階です。外部の手助け無しに航空機事業が離陸するわけがありませんでした。川井さんの言葉にはなんとか打開しようとしても、課題を解決できないもどかしさが鮮明に表れています。
「『本当にできるのかな』というのは正直ずっと不安を持って過ごしていました。何から手をつけていいのか分からないような状況です」
「そのすごさが教わる側が分かっていれば、ちゃんと聞くんですけど、私がいろいろなことを言っても、彼らは『自分のやり方でやります』とはっきり言うとそういうタイプ。その当時の技術者は“うぬぼれ”があったのではないかという気がしています。
「飛行機としてはいい飛行機を造ってくれます。いわゆる履き違えていたんです。飛行機を造ることと、安全性を証明していくことは違うことなのが分かっていなかったんだと思います。やっぱり謙虚さに欠けていたところがあると思います」
「完成機はもうないと私は思っています。しばらくは…。これは国家的な損失だと思います。世界における日本の地位がどんと下がりましたから」
MRJは全日本空輸などから複数の新規受注に成功したものの、最後までFAAの型式証明の取得に苦労しました。三菱重工のトップはMRJの難局を必ず乗り越える覚悟を表明し続けましたが、6度に及ぶ計画延期が重なり、結局は時間切れに追い込まれ、プロジェクトは終焉を迎えました。型式証明は申請から約15年かけても取得することができませんでした。
MRJとよく比較されるのがホンダジェット。ホンダの藤野道格さんが30年以上もかけて事業化に努力し、2015年から量産を開始。世界の小型ビジネスジェットとして高い人気を集めています。ホンダはエンジン製作で多くの実績を誇るGEと組んで型式証明を取得し、事業の難関を見事クリアしています。
製造現場の誇りが自動車や電機の進歩の足枷に?
MRJの場合、「零戦」など世界に誇る戦闘機を製作した三菱重工が親会社でした。明治以来、日本の製造業を代表し、その誇りを背負ってきた会社は、海外のエンジン・航空機メーカーと手を組む選択をするわけにはいかなかったのでしょうか。一度掲げた「日の丸」「国産初」という名誉はとても重いのでしょうね。製造現場の誇りが生み出す重さは航空機のみに限られたものではありません。
自動車や電機など日本の多く製造業の硬直性を招き、世界から取り残される苦境に追い込んだ主因なのかもしれません。川井元社長の言葉の一つ一つがより重く感じられます。