探偵はいつも「小太郎」に③ プリンス会館が全焼に、酔っ払いはどこに行けば良いのか
昭和育ちの酔っ払いにとって、好きな居酒屋が消えるのはとても寂しい。お店の木戸を開き、店内の空気を吸った瞬間、心が安らぐのを覚えます。扉を開くドキドキ感も好き。元来、一人呑みが基本ですから、カウンターに座って駆けつけ3杯を済ませ、まずはホロ酔いに。そこからゆっくり飲むのがルーティン。好きな居酒屋が消えることとは、そんな醍醐味を見失うことと同じです。
木戸を開くだけで心が安らぐ空間
先日、NHKのEテレで「1000番地」と呼ばれた札幌の土地の歴史と現在を紹介するドキュメンタリーが放送されました。繁華街の狸小路を東に抜けていくと人通りと灯が寂しくなる地区がありました。右手は「金富士」など老舗が立ち並び、左側には駐車場が広がりますが、すぐそばにポツンと長屋と見紛う何軒の居酒屋がスナックが虎屋の羊羹のように伸びています。1000番地、あるいは「ひょうたん横丁」と呼ばれていました。
かなり酔っ払った後でも、ふと立ち寄りたくなる空間でした。通ったお店は、ちょっと体が不自由なママがいました。でも、いつも楽しく笑って歓迎してくれ、その日に溜まった心の澱を消してくれます。毎回いくら払ったか、いつお店を出たか覚えていませんが、翌朝は気持ちよく起きました。その横丁は嵐のように札幌市内に襲いかかる再開発の波に飲まれ、2024年春に消えました。
「1000番地」の番組を見て、「プリンス会館」が蘇りました。混沌という表現しか思いつかない繁華街ススキノの中でもディープススキノと呼ばれた地域にありました。2014年11月5日午前、館内のお店を火元に全焼しました。ここには札幌在住中、通い続けた「小太郎」がありました。その日は転勤先の東京にいましたが、札幌の後輩から「プリンス会館が全焼になりました」とのメールが届き、びっくり。「小太郎はどうなった?」と訊ねたら「詳細はわかりませんが、舘全体が大きな被害を受けている」と返信がつぶやきます。
カウンターの小宇宙も燃える
火災は午前中だったので、夜営業の小太郎の女将は不在で無事でした。まずはホッとしましたが、あの店が燃えてしまうとは・・・。女将が安全だったのこともあって、お店の火災で最初に思い浮かんだのが、不謹慎にもなんとカウンター上の水槽で暮らしていた生物たち。ヤドカリ、小魚、そして水槽の小宇宙で君臨していた磯ガニ。海藻を切り取り、マフラーのように身に纏い、砂粒をアクセサリーとして付着し、帝王のような振る舞いでした。水槽とはいえ、人間の世界と瓜二つの小宇宙を眺めてお酒を飲むのが大好きでしたが、磯ガニもヤドカリも燃えてしまいました。お店を突然失い、先行きの不安を前に途方にくれる女将の心情をすっかり忘れた自分を大いに恥じたものです。
女将さんのお兄さん、東直己さんの書籍もお店の隅に並んでいました。「探偵はいつもBARにいる」シリーズは有名ですが、東さんは北海道に強い苦言を呈した書籍も出しています。手厳しい内容だけあって本屋さんには並んでいません。
北海道といえば、美味しい農水産物に恵まれ、雄大な自然がどこへ行っても堪能できます。全国の地域人気ランキングでも常に第1位。国内外から多くの観光客が訪れるのも当然です。みなさん、口々に「おいしい」「とても美しい」などお褒めの言葉が絶えません。
東さんはかなり強い表現で説きます。北海道は周りの褒め言葉を鵜呑みにし、自ら努力する精神を忘れる時がある。先住民アイヌの土地を支配し、国から多額の資金を投入されることが当たり前と思っています。その象徴が北海道開発庁の存在でした。2001年に廃止されましたが、今でも困った時は国を頼りにする風土が残っている。しかし、政治的には国に反発し続けます。自らの足で立ち、前進できる日は訪れるのか。北海道を愛する人間だからこそ、強い筆致で鋭く突きます。その本も燃えてしまいました。
居酒屋には幸せにする魔法が
なによりも女将さんの粋な趣味で集めた小物が燃えてしまいました。お酒の盃、箸置き、店内を飾るデコレーションなどなど。数えきれません。女将はウサギが大好きで、月夜を眺めるウサギが染め付けられたお猪口を愛用していました。あれも、きっと・・・。
居酒屋の空間は酒造りの蔵と同じ。店内の壁や空気に女将やお客が醸し出した”菌”が生きています。居酒屋それぞれの菌が気持ち良い酔いに導き、幸せを感じる魔法を生み出すのでしょう。あの”菌”も燃えてしまいました。
そういえば、通路を挟んだ小太郎の向かいの店に都市伝説そのもののバーがありました。開店は午前0時か1時過ぎ。ドアには紙が張り出され、一見の客は入れませんと書かれています。入店した経験がある人に出会ったことはありませんが、店内はドアを開けるなりレコードが壁となっており、ほぼレコードで埋まっているという噂でした。ビートルズやローリングストーンズを溺愛しているとも聞きましたが、さだかではありません。一度は覗いてみたかったのですが、無理入ろうとすると叩き出されるそうです。山積みされた貴重なレコードが燃えてしまう。想像するだけで涙が出てきます。
どんな災いはいやです。思い出だして、懐かしむなんてとても虚しいことです。=つづく