映画グリーンブックとカトマンズの少年たち 「現金を見せるな!」
一通り旧王宮を見た後、お礼も兼ねてランチに誘い、地元の人が通うお店に連れて行って欲しいと頼みました。何回か路地を曲がりたどり着いたお店は確かに外国人観光客は見当たりません。食事を持ってきた少年が6〜8歳ぐらいに見えたので「何歳?」と聞いたら「15歳だよ」と言います。
「えっ!!」。体格はもちろん顔の表情も幼い。一緒にいた少年に「それじゃ君は何歳?」と聞いたら16歳との返答。少年は「栄養が良くないから、外国人と違うんだよ」としたり顔で言います。
そんな驚きを引きずりながらお店を出た後、連れの少年は尋ねてきました。「今夜はどうするの?」。「まだ宿泊先は決めていないよ」と答えると「ホテルで一緒のベッドで寝ても良いよ」と問い返してきました。
2度目の「えっ!!」。なぜ、こんな質問するのと返したら、男性外国人の一人客は地元の少年と一緒に一週間ぐらい過ごす目的で訪れる場合が多いというのです。彼は先週、一週間ぐらい欧米の男性とホテルで一緒に暮らしたそうです。「食事の心配はいらない、バスタブのお風呂に入れる」と笑います。
「私は一人で旅行するのが好きだから」と断ったら少年は残念そうな表情を見せたので、ようやく市内を歩いている時に声をかけられた理由がわかりました。全くわかっていなかった、馬鹿だなあ。そういえば長距離バスに乗った際、となりの列に座った外国男性が隣の男の子にべたべた触りながらはしゃいでいた。
お客の一人と想定されたことへのショックが消えないまま「それじゃここでお別れ。市内のガイド代としてお礼を払うよ」と言うと、ランチをご馳走されたから良いよと断ります。「半日を一緒に歩いたんだから、払うよ」と返したら「それじゃ1ドルで良いよ」。
「それじゃ」と歩きながら財布を取り出して1ドル札を取り出した瞬間、「人前でドル札を見せちゃだめ」とさっきまでの笑いは消え、きつい目つきで注意します。「財布の中身を必ず見ている人がいる。危険だ。カトマンズにいる間は現金を見られるようなことをしてはいけない」。
20歳以上も離れた少年に繰り返し怒られました。本当は3ドル渡したかったのですが、ここまで言われると残り2枚のドル札が出しにくい。諦めました。ケチったわけではありません。私からみればドル札何枚かの差に過ぎませんが、少年にとっては生活費何日分になるはずです。
グリーンブックが描いた1960年代の人種差別社会、カトマンズの少年が性を売らないと生活できないほど貧しかった1990年代。共通するのは逃れられない貧困と差別だけなのでしょうか。
いずれも長い年月は過ぎました。トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」に「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という文章があるそうですが、「貧しい生活に追い込まれれば1ドル札1枚を見詰める視線の強さは世界のどこでも同じ」と感じます。
しかし、財布から取り出す1ドル札を遠くから見つめる強い視線があることを全く想像できなかった自分がいたのも事実です。1ドル札を見ると、カトマンズの少年を思い出す時があります。なんで笑ってグッドバイできたんだろうって。そして真剣な表情で私の目を見詰めながらお皿を差し出した、6〜8歳にしか見えない少年の幼さを忘れられません。