漱石の三四郎は読んでいませんが、旭川の三四郎は飲んでいます。
旭川市に宿泊する機会があったら、かならず「独酌三四郎」に立ち寄って飲んでいます。このお店はテレビ東京の人気番組「孤独のグルメ」でも紹介されているので、ご存知の方が多いでしょう。私はもう20年ぐらい前に出張で旭川を訪れ、地元の人に「この店は行った方が良い」と勧められて入店。以来、旭川の地を踏んだら、必ずといって良いほどお店を訪ねています。
旭川を訪れたら、かならず三四郎へ
お店の魅力は「すべてが自然なところ」という表現が合っているかと思います。お店の構えはお客が自分勝手に「だったら良いな」と思い描くイメージを映し出します。冒頭の写真をみていただければわかる通り、「独酌三四郎」の看板は白地に艶やかな黒の筆文字。
正面の窓や木戸は格子状で、真冬は気温がマイナス20度以下に達する旭川市ですから二重構造の木戸。市内の中心部から近いのですが、お店の周囲は暗く、凍った硬い雪を踏み締めサクサクと音を鳴らしながらお店の前に立ちます。真正面の木戸を開けると、左手にもう一つの木戸が待っています。その木戸を開くと、暖かい空気が顔にフッと吹きかかってきます。気持ちはもう日本酒を飲む準備体操を始めます。
店内は右手を見ればカウンター席が並び、右手前奥に焼き場があります。左手には卓を並べた畳の座敷が広がります。二階にも客席がありますが、上がったことはありません。女将さんは着物に割烹着姿で、てきぱきとお客の注文をこなし、スタッフに手短に指示しますが、余計なことは言いません。いわゆる「女ぶり」が素晴らしい。
もちろん、お客さんによってお店の好き嫌いは違います。お店の雰囲気を自然と受け止める人もいれば、わざとらしい演出と感じる人もいるはずです。お店の素晴らしさを雰囲気で説明するのは難しいのですが、あえて言えば、お会計を済ませた後、多くのお客さんに「また来たくなる空気を自然に感じさせる」という演出に長けているのかもしれません。
お店の演出はプロとして当然のこと。お客はその演出を酒飲みの度量としてどの程度受け入れ、楽しむかも試されるわけです。それが一見の客で終えるのか、馴染みになっていくかの分かれ道を歩むことになります。
好きな日本酒の演出も長けています。数多くの銘柄をすらりと並べるような無粋なことはしません。女将さん自身が酒蔵と一緒に味を決めた日本酒もありますが、そんなに迷うことなく「今日の気分はこの銘柄で行こう」と選べる日本酒の名前がカウンター席の目の前に並んでいます。
お酒の銘柄の下にある食だなのガラス戸に昨年(2021年)10月に亡くなった林家小三治さんが書いた半紙が貼られていました。1行の文だったのですが、正確な言葉は忘れました。でも、筆の動きに勢いがある字体に見入ったのを覚えています。その筆力を見ながら、燗酒一本いただきました。ごちそうさまです。小三治さんは三四郎を愛していた1人だそうです。好きな落語家さんが好きなお店を贔屓していたなんて、うれしいですがお亡くなられてとても残念です。
「本物の柳葉魚」があります
三四郎を訪れたら、真っ先にお願いするのは「柳葉魚(ししゃも)」です。ししゃもは丸々とお腹が太った体型を思い浮かべる人が多いと思いますが、三四郎の柳葉魚は北海道東部の広尾産です。柳葉魚は見える文字の通り、独特の香りがうまみのひとつです。卵が入っている雌、白子の雄それぞれに味があります。見た目はカラカラに細く干された寂しい姿ですが、軽く炙って噛み締めると他の魚ではない味を体感できます。
小さい頃、函館で育ち、父親が水産会社で働いていたこともあって、この独特の香りと味わいを体と舌で覚えてきました。東京などで出回るのはシシャモであって、柳葉魚じゃないのです。もう10年ほど前ですが、仕事で旭川にご一緒したある有名な野球評論家を三四郎にお連れして、「これが本物の柳葉魚ですよ」と話したら、彼は「柳葉魚に本物も偽物もあるのか」と笑いながら、大酒を飲みました。