奥能登文化の再興を願う 珠洲の土が生んだ灰黒色の焼き物

大谷洋樹の岩手の風

 能登半島先端にある石川県珠洲市。珠洲は焼き物の産地です。以前半島を一周旅行した際立ち寄った珠洲焼の施設で、焼酎カップとご飯茶碗を購入しました。灰黒色の陶器は珠洲の土が生んだものです。能登地震で珠洲はほぼ全域で断水、市内の窯はすべて倒壊と伝わります。食卓の焼き物を見ると奥能登文化の再興を願わざるを得ません。

深みと強さとやさしさ

 焼酎カップは灰と黒が溶け合うように暗い色あいですが、光沢があります。素朴な中に深みと強さとやさしさ、やわらかさが混ざり合って、能登の人を彷彿させるようです。その色は荒れた奥能登の日本海の冬空を思わせます。

 カップの添え書きに、珠洲の土と炭化焼成によって「焼酎やウイスキー、お酒などはまろやかな味に変わります。ビールは泡がきめ細かく消えにくいので最後までおいしく飲めます」とあります。

 珠洲の土は鉄分が多く、高温で燃やす薪の炭素と結合して落ち着いた灰黒色が生まれます。釉薬は使いませんが、焼成中に降りかかった薪の灰が熔けて自然釉が生じます。珠洲の土に働きかける職人の技が生み出す自然の産物です。

最果ての地の利生かして日本海に広がる

 珠洲焼は、古墳時代朝鮮半島から渡来人が伝えた須恵器を受け継いでいます。釉薬をかけない灰黒色の陶器です。武士が登場した平安末期から戦国の動乱期まで400年間生産されました。忽然と消えた幻の陶器でしたが、昭和30年代以降多くの窯跡が見つかり、考古学研究によって須恵器と区別すべきとして「珠洲焼」と命名されました。

 釉薬をかける灰釉陶器の流れをくむ中世の窯の代表、常滑の製品は太平洋側に流通しました。陶器のようにかさばって重い物は陸より海の道が便利でした。日本海交易が花開いた中世後期、半島突端の地の利を生かして珠洲の古陶はその系統とともに北海道まで北東日本海域に広がりました。

珠洲の窯の再起に向けて

 能登はアイヌ語のノット(岬)が由来ともいいます。陸の最果ての地、珠洲は中世期、海を舞台に文化の先進地だったのでしょう。

 珠洲焼資料館が平成元年刊行した「珠洲の名陶」が手元にあります。この年、資料館、陶芸センター、展示販売の各施設を備えた「珠洲焼の里」が完成しました。珠洲焼が復興したのは昭和54年です。

 北國新聞(金沢市)は地震で市内18の窯がすべて倒壊したと伝えました。昨年の大地震から立ち上がった矢先のこと。

 珠洲の人と風土は切っても切れません。窯や資料館、そして職人の再起に向けて、まず水と住居、そして仕事場の確保が1日も早く急がれます。

大谷 洋樹 ・・・プロフィール

日本経済新聞記者、生活トレンド誌編集などを経て盛岡支局長を最後に早期退職、盛岡市に暮らす。山と野良に出ながら自然と人の関係を取り戻すこと、地方の未来を考えながら現場を歩いている。著書に「山よよみがえれ」「山に生きる~受け継がれた食と農の記録」シリーズ。

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