Quad(クアッド) 、オーストラリアが26年間、仕掛け続けた経済安保
1995年6月11日、オーストラリア西部のパース。世界で最も美しい都市の一つで、インド洋の21世紀を占う国際会議が開催されました。「International Forum on the Indian Ocean Region (IFIOR)」。インド洋を巡る29の国・組織から400人超が参加してインド洋の今後の貿易、投資などについて討議しました。当時のインド洋を取り囲む国の政治経済はさまざまで、インドをはじめ将来性があるのは理解できるが地域を一体で捉えるのは時期尚早との見方が大半でした。開催場所のパースに中国の観光客に大人気のカジノがあります。「国際会議の結末はカジノでギャンブルするのと同じ」とのジョークが広がりました。主宰するオーストラリア政府はインド洋地域の経済発展を議論する場が設けられることが最大の成果と説明しましたが、APEC(アジア太平洋経済協力会議)の提唱国であるオーストラリアにとって貿易自由化の波をインド洋に向けていかに広げるか、このきっかけが欲しいというのが本音でした。もちろん貿易自由化の議論の陰には安全保障問題が控えていました。
26年後の2021年9月24日。米国、日本、オーストラリア、インドの4カ国がワシントンで首脳会議を開き、共同声明を発表しました。日米豪印4カ国の集まりを意味するQuad(クアッド)と命名された初の対面式首脳会議は名指しは避けましたが中国を念頭に「国際法に従いながら、自由で開かれたルールによる秩序を維持する」と宣言。毎年定例開催するそうです。
朝日新聞の9月25日付け記事によると、バイデン大統領は会議冒頭、「我々は協力の歴史がある四つの民主国家だ。難局に挑む」と述べ、菅首相も「基本的価値を共有する4カ国がインド太平洋地域で法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を実現するために協力する極めて重要な取り組みだ」と語りました。共同声明では「法の支配、航行の自由、紛争の平和的解決、民主的価値を支持する」と強調し、「東シナ海、南シナ海を含む海洋秩序への挑戦に対処する」と明記。中国がすごい勢いで拡大している経済分野ではAI(人工知能)や高速通信規格「5G」などの先端技術を中心に4カ国が連携して開発やルールづくりの主導権を握る考えです。半導体もクアッド4カ国でサプライチェーンを改めて解明して安定した調達の実現をめざします。
クアッドの構想は2006年に当時の安倍晋三首相が4カ国の戦略対話を提案したのがきっかけで具体化しました。4カ国はインド洋と太平洋を囲み、経済・政治についての価値観を共有しているというのが建前です。安倍氏が再び首相へ返り咲いて進展。首脳会議は今年1月に就任したバイデン大統領がアジア太平洋、インド洋で著しい勢力を拡大する中国への抑止を念頭に提案しました。
クアッドの伏線となるのが冒頭に紹介したパースの国際会議と私は考えています。オーストラリアは1970年代まで掲げていた白豪主義を捨て、アジア太平洋地域の貿易自由化への道を舵を切ります。1990年代のキーティング首相はアジア志向を一層明確にします。日本、中国、東南アジアとの心理的距離を一気に縮め、経済成長を続けるアジア太平洋の中で資源大国としての存在感を再設計します。ニュージーランドとの経済貿易協定(CER)をスタートラインにAPECを提唱し、アジア太平洋の自由貿易圏を形成。現在のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)へと拡大していきます。26年前のパース国際会議もAPECで自信を得たオーストラリアが「柳の下の二匹目のどじょう」を期待したものです。日本的な表現で申し訳ないです。
1990年代のオーストラリアの外交戦略を練り上げたギャレス・エバンス外相はパース国際会議に先立つ1995年5月19日、インドのニューデリーでパースで開催する国際会議の意義を次のように説明しています。インド洋をめぐる重要な環境変化として「第一は冷戦の終了、第二はインドの政治経済の改革と開放、第三に南アフリカの世界社会への復帰」の指摘した後、「アジア太平洋地域と貿易自由化などで対話するにはまだひ弱だが、過小評価すべきではない」とインド洋を巡る地域の将来性について期待します。
エバンス外相は冷戦終了後の欧米、日本、中国につづき東南アジア諸国の台頭によって世界の秩序が大きく変わる時期に入っていると考えているため、孤立主義に陥らず地域全体で各国が直面する課題を率直に議論する流れを定着させるのが重要と説きます。当然ですが、その視野には貿易自由化など経済の枠組みを超えてアジア太平洋、インド洋の安全保障問題が入っています。エバンス外相のスピーチは下記のアドレスから参照できます。https://www.gevans.org/speeches/old/1995/190595_indianocean_australian_perspective.pdf
ここからが26年後のクアッドに繋がる入り口です。1990年代には中国が南シナ海でベトナムやフィリピンと領有権争いを演じていました。中国海軍の太平洋進出はオーストラリアはもちろん米国などが危惧し始めており、中国が南沙諸島(スプラトリー諸島)を領有した場合に備えた軍事演習をオーストラリア、米国、インドネシアなど周辺国と実施しています(この演習について後日、別途書きます)。米国や英国は中国と領有権問題で前面に出るのは早いと判断していましたが、アジア太平洋の安全保障についてはその先鋒ともいえる役目をオーストラリアは背負っています。
オーストラリアは英連邦の主要メンバーです。その英国は米国と軍事面で強固な連携関係を構築しています。両国が表立って動けない時はオーストラリアが代わりに、あるいは陰で動きます。またオーストラリアは日本と政治・経済で緊密な信頼関係にあります。日本の自衛隊は憲法上、身動きは取れませんが、英米は日本の自衛隊をアジア太平洋の安全保障の枠組みに取り込む道筋を描き、そのリード役をオーストラリアが演じています。そして日本の次はインドへの接近です。オーストラリアにとって中国は日本を上回るほどの最大の資源輸出国ですので、中国と緊張関係に転じるわけにはいきません。しかし、一方で地球規模で経済、安全保障を眺めた時、オーストラリアにとって不変のパートナーシップは英国であり、米国です。そして日本も離したくはありません。と言って主役に躍り出る必要はありません、黒子が適役です。2006年に安倍首相がクアッド構想を提案した形で日本が主役にアジア太平洋経済安保問題で主役を演じることができたのもオーストラリアの振付があったからで、米英にとってもシナリオ通りの幕開けに成功といえるでしょう。
クアッドはオーストラリアが26年間かけて仕掛けてきた経済安保の果実の一つです。表現は悪いですが、米英に代わって日本が一緒に連携できる土壌を耕し、そこに米英が加わり共に果実を育てていく。今回は中国と政治的に対立するインドが準主役として加わりました。
ただ、オーストラリアが現在のように中国と厳しく対立する姿は想像していませんでした。鉱物や農産物など一次産品の輸出であれだけ深い経済関係を築いたのですから。フランスとあれだけの軋轢を起こしながらも原子力潜水艦計画を米英と組み替える判断はこれまでのオーストラリアの外交政策では考えられませんでした。
パースはインド洋に沈む世界で最も美しい夕日が見られる都市として知られますが、インド洋から猛烈な風が吹き寄せる激しい気候も日常茶飯事です。またパースではブラックスワンが湖や川で生息しているのをご存知ですか。パースから飛びったクアッドがどんな強風に遭うのか、それともブラックスワンに出会うのか。アジア太平洋、インド洋がパースの街のように静かで美しい風景であり続けると信じています。