多摩全生園を初めて訪れました メディアの役割の重さを改めて噛み締める

 小中学生の頃から映画「ベンハー」が好きで繰り返し何度も見ています。ギリシア・ローマ史を面白く読んでいた時期だったので、歴史の一場面を目の前で再現したかのような展開にハマりました。主役のチャールトン・ヘストンが戦車を操り勝利する競技場のシーンは有名ですが、キリストが丘に登り、多くの人々に話しかける「山上の垂訓」と呼ばれる場面も印象的でした。

ベンハー「奇跡でしか治らない」

 もちろん、理解できないシーンはいくつもありました。ベンハーの一族が凋落し、奴隷となったベンハーが名誉回復して消息不明になった母親と妹を探し出すと、人里離れた洞窟に多くの人と暮らしています。その洞窟に入るためには、籠にぶら下がって地上から降りて行くしかありません。母親と妹は「近寄ってはいけない」と言い放ち、顔や手を布で隠しています。ハンセン病でした。ベンハーは、キリストの奇跡を信じて家族を連れて行き、キリストが十字架の刑の後に奇跡が起こります。治らないと言われていたハンセン病はキリストの奇跡で完治したのです。

 映画のラストシーンにこのエピソードを使う意味が子供心に正直、わかりませんでした。キリストの偉大さを誇示したかったのでしょうが、この病気は奇跡でしか治らないのか。そんな記憶が強く残ったのを覚えています。

 成人してからインドのコルコタ(当時カルカッタ)へ行き、マザー・テレサを訪ねたことがあります。実際にお会いできるとは思っておらず、どんな場所にあるのかを見たいと思った程度でした。マザー・テレサは「死を待つ人々の家」と呼ばれる施設で身寄りのない重病者を看病しており、ハンセン病の患者もいました。街の中心部から市の路線バスで向かい、目的地が近づくと雰囲気がどんどん変わっていくのがわかります。路上の樹や電信柱に縄が巻き付かれ、先端部に炎が見えます。バスで乗り合わせた地元の人に尋ねたら、「この辺の住民はマッチなどを持っていないから、タバコや炊事に必要になったら火縄の所へ行くんだ」と教えてくれました

「死を待つ人々の家」に到着し、断られるのを承知で受付のスタッフにお会いできるかどうかを尋ねました。「ちょっと待って」と言います。しばらく待っている間、施設の人たちが行き来し、ドギマギしたのを覚えています。「マザー・テレサは今、忙しいので会えない」。スタッフさんの答にすぐに納得しました。ふと目を施設の中に向けるとマザー・テレサがドア越しにこちらを見ていてくれました。とても感激しました。

知識はあっても、取材経験なし

 ハンセン病に関して知識はありました。しかし、実体験はとても希薄です。新聞やテレビなどを通じてハンセン病に関する裁判、患者さんや家族の権利を守る法整備を求める「らい予防法闘争」なども承知していましたが、実際に取材していませんから遠い存在でした。

国立ハンセン病資料館

 自動車で30分ほどの距離に「多摩全生園」(東京都東村山市)があります。ただ、コロナ禍でしばらく見学中止が続いていました。最近、園内の国立ハンセン病資料館など一部が見学できるようになったので、初めて訪れました。事前に学芸員の方とも連絡したのですが、まずは多摩全生園に一歩踏み入れ、お話を伺う端緒を見つけることを優先しました。

 多摩全生園内にある国立ハンセン病資料館の入館時に写真撮影の許可証を記入していると、受付の女性が「どうぞ資料を持ちください」と勧めてくれたので、それならと目の前にある資料をすべて集めていたら「詩集や短歌、俳句などが素晴らしいですから、ぜひ読んでくださいね」と言われました。多摩全生園の皆さんの胸の内を感じて欲しい。そう促されたと感じました。はい、必ず読みます。

資料館は古代からの歴史を展示

 資料館の展示は、1400年前から日本にあったハンセン病の歴史を古代から近世までを絵画などで説明するコーナーから始まります。明治以降は診療の歴史、診療所開設の経緯、患者さんの衣食住の生活、治療など多岐に渡って当時使われた衣服や器具などが紹介され、当時の雰囲気は十分に伝わってきます。逃亡を防ぐための監禁室、結婚後の断種など、人権そのものが無いかのような処遇に言葉を失います。生半可な知識と説明を続けても、ぼやけた原稿になるでしょうから展示の紹介などはここで打ち止めにします

 ただ、自分自身の仕事であった「新聞記者に対する問い掛け」だけは明記しておきたいと思います。ハンセン病は感染力は弱く、1947年にはプロミンと呼ばれる画期的な治療薬が登場しました。にもかかわらず、患者さんの隔離政策は全国で続けられ、社会的な偏見が消えることがありません。患者さんを療養所に閉じ込める法的根拠「らい予防法」が廃止されたのは1996年。療養所の入所者らは1998年に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を提訴し、日本国の政策が誤りだったと認定した判決が熊本地裁で下されたのは2001年。当時の小泉純一郎首相は、既定路線といわれた控訴方針を覆して断念を表明し、判決は確定しました。まだ20年ちょっとの歳月が過ぎただけ。つい来ない間の出来事です。

婚約解消の相談記事

新聞は偏見・差別を助長も

 新聞はどう伝えたのか。資料館には過去の新聞記事のスクラップが多く展示されています。社会的偏見を心配して、ハンセン病患者との婚約を解消するかどうかの相談記事、逮捕前からハンセン病患者が発病を密告された恨みからの殺人と決めつけた記事、「どこへ行く!ライ未感染児童」との見出しを掲げた差別記事なども。

 「新聞記事」と銘打った展示には、「全患協は新聞社に対して支援を求めました。国会で政府答弁書の出たタイミングや、多摩全生園で国会議員による公聴会が開かれるタイミングなどで、取材するよう求めました」と始まる文書が掲げられています。らい予防法闘争の意義を解説する記事や入所者の声を伝える記事がある一方、「1953年(昭和28)年7月1日に全患協が直接陳情に踏み切り入所者が療養所の外に出るようになると、感染への危惧が報じられ、患者運動を警戒する記事も書かれていきました」と伝えています。

犯行を前提にした見出し記事

 新聞記者は一生懸命に取材していると思います。多くの記者はハンセン病の専門知識に疎いため、医師や大学教授ら専門家に取材し、信頼に足る記事を書き上げていると信じています。ただ、専門家によって判断の違いもあり、両論併記というスタイルで記事を執筆する場合もあります。取材現場の記者から上がってくる原稿を判断する編集デスクも、読者の関心の度合いによって記事の見出し、内容を選択する傾向があります。結果、心配する恐れがないにもかかわらず、ハンセン病に対する偏見を助長する記事が新聞に掲載され、社会で定着している偏見・差別をさらに助長する悪循環を招いてしまった記事もあったのでしょう。

信頼できる記事を発信する努力

 ハンセン病に限らず、水俣病など公害を発生源とした広域な被害、身体・精神・知的障害者に対する偏見はいまだに社会全般に残っています。神奈川県の知的障害者施設の殺人事件はまだ記憶に新しく、映画として上映され、話題となったのはつい最近です。

 新聞やテレビ、ネットのメディアは、目の前の事実を正確に伝えることができるのか。あるいは正確に伝わらなかったら、より正確に伝える努力をするのか。

 メディアが伝える姿勢。後退りだけはしたくありません。

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