MAZDA2 躓いても転んでも「じゃけぇ、マツダは変わらん!」

 「じぇけぇ」。マツダが本社を構える広島県には魔法のことばがあります。

 どんな場面でもこのフレーズを発すれば、会話は滑らかに流れます。ただ、肯定しているか否定しているのか、あるいは聞き流して無視しているのか。時と場合によって、それとも相手によって違います。あいまいな受け答えとして使い分けることもあります。

魔法の言葉を繰り返し、転んでもかならず立ち上がって夢見るクルマへ

 マツダの経営をもう40年近く眺めてきました。快進撃というよりは、何度も何度も躓き、時には転んでしまい、なんとか立ち上がって存続に向けて懸命に歯を食いしばる姿がほとんどです。ホームページには「DNA」という表現を使ってマツダを貫く「ものづくり」への精神を説明していますが、その遺伝子はどんな窮地に直面しても「じぇけぇ」と呟き、目の前の不愉快な出来事を帳消しにして夢見るクルマに向かう強靭さを兼ね備えています。

 最初の「じゃけぇ」はやはり1960年に技術導入したロータリーエンジン。実用化するまでには数多くの技術的な困難と膨大な開発資金の問題が待ち構えていました。開発部隊を率いた山本健一さん(後の社長)は笑いながら話していました。「研究者は褒めてもらはないと仕事ができないだよ」。どんな難問であろうが、「じぇけぇ」を連発して前に進むしかない。

 7年後の1967年、「コスモスポーツ」が誕生します。実用化に至るまでの試行錯誤はテレビなど多くのメディアで紹介されていますから省きますが、ロータリーの命ともいえるまゆ型の成形は今でも手作業でしか実現できない高精密加工が求められます。ものづくりに精通した熟練の職工さんを育て、承継する執念がなければ、できあがりません。奈落の底を覗いても、諦めないマツダの歴史そのものです。やはりマツダの心棒はロータリーエンジンなのです。新車への搭載をやめて久しいですが、今でも補修用を考えて生産している意味がよくわかります。

ロータリーエンジンは天国と地獄をマツダに

 現場の汗と熱を注入されたロータリーエンジンを搭載した新車は、ピストン運動を利用するレシプロエンジンでは得られない加速感や強烈な先進性が受け入れられ、若い層を中心に次々とヒットしました。排ガス抑制の効果も米マスキー法をクリアしたホンダのCVCCと並ぶほど優れているため、環境規制が強化された米国でも高い人気を集め、1970年念願の米国進出にも貢献しました。1960年代は三輪トラックや軽自動車など大衆車に大きく依存していた事業構造が1970年に入ってマツダのブランドイメージは一新を受けて乗用車が猛烈に売れます。まさに救世主に映ったはず。

 当時の松田耕平社長はロータリーエンジン時代の到来を確信し、巨額投資を決断します。既存設備の増産投資に加え、新工場の建設にも着手します。相次いで登場した「ルーチェ」「カペラ」「サバンナ」は、その頃高校生だった私にとってあこがれのクルマでした。その名は今でもカッコ良い響きにしか聞こえません。米国でも1973年当時に販売する車種の過半がロータリーエンジン車だったそうですから、人気の高さには驚きます。その直後、1973年に第一次石油ショックが起こります。

 ノックダウン寸前。躓くどころか、マットに倒れ10カウントを数える叫び声が聞こえ始めます。優れた加速感や先進性で群を抜くロータリーエンジンでしたが、最大の弱点は燃費の悪さでした。どのくらい悪いかは走り方などで差がありますが、当時の東洋工業(現マツダ)が1974年に掲げた燃費改善目標が40%アップ。レシプロに比べてかなりガソリンをがぶ飲みしていたのは事実でしょう。1980年代後半に燃費を大幅に改善した「RX-7」を運転した経験があります。東京から千葉の九十九里までドライブしましたが、湾岸道路でターボラグを何度も味わおうと遊んだこともあって片道だけで満タンの燃料タンクが半減したのには青くなりました。

 天国から地獄へ。ロータリーエンジンは今度は奈落の風景を見せつけます。主要取引銀行の住友銀行はなんと経営を存続させようと磯田一郎、巽外夫、村井勉ら後の頭取や副頭取に就く錚々たる人材を配置しました。それでも出血は止まりません。創業家の松田耕平社長は追われるように退き、1977年に山崎芳樹社長が就任します。巽さんは当時のことを箸の上げ下ろしまで指示したと話していました。ロータリーエンジンにあこがれて入社した社員のみなさんの胸の内は伺い知れません。ただ、広島市の繁華街、薬研堀や流川で酒を飲んだ時だけは「じぇけぇ」と言いながら、明日を信じていたと思います。

住友銀行はマツダをフォードとの資本提携へ、新しい呪縛に

 住友銀行が自動車メーカーを経営できるわけがありません。かねて提携関係にあった米フォードに資本提携を持ち寄り、1979年にマツダとフォードは出資比率25%で合意します。フォードにとって世界戦略の空白だったアジア地域の拠点として位置づけていましたが、弱点だった小型車の開発・生産をマツダが担う役割を期待していました。マツダへの出資比率25%。フォードに経営の実権を握られたわけではありません。とりあえず目の前の経営不安を解消し、今後の資金面の後ろ盾に利用できると考えていました。フォードの資本提携に牛耳られてたまるかと考え、小型乗用車の歴史に残る「ファミリア」を生み出します。ロータリーエンジンが生み出した副産物といえるでしょうか。

マツダの未来を切り拓いたフォードとの資本提携とファミリアの成功はロータリーエンジンに代わる新しい呪縛を生みます。

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