
ほぼ実録・自動車史)日産① 人材は一流 経営は二流
日産自動車の社長が無能だったわけではありません。むしろ日本の産業界でも注目を集める存在感で輝いていました。
石原、久米両社長は高い評価
1970年代〜1990年代の日産を率いた石原俊、久米豊。社長としての識見と決断力が高く評価されていました。ただ、残念ながら、日産の経営は飛翔するどころか、低空飛行に向かってしまいます。業績が上向き、息を吹き返す瞬間はありましたが、凋落の流れが変わることはありませんでした。
1977年に就任した石原社長は「グローバル10」を掲げました。日産の自動車生産が世界の10%を占める。2026年の今から振り返れば、とてつもない大風呂敷に映りますが、大柄な体格同様、経営も剛腕で鳴らした石原社長が推し進めるなら、実現するかもと期待したのも事実です。
国内市場ではトップを走るトヨタ自動車にどうしても叶わない日産です。トヨタに追いつき、追い越すためには世界戦略を加速して抜き返すしかなかったのでしょう。
時代も求めていました。日本車の輸出は順調に拡大していましたが、これに伴い米国、欧州との貿易摩擦は過熱。ホンダは早くから二輪車、四輪車の現地生産を開始していたものの、トヨタ、日産などは日本から輸出しています。
石原社長は就任後、米国、欧州での現地生産計画の具体化に着手する一方、フォルクスワーゲンとは相互に受託生産する提携を結び、欧州に楔を打ちます。1981年にはサッチャー首相と英国進出を調印する派手なパフォーマンスを演出し、国内生産に固執する内弁慶のトヨタを尻目に世界戦略にアクセルを踏み続ける日産を国内外にアピールしました。
華やかな世界戦略が思惑通り、成功すれば今の日産ではなかったかもしれません。残念ながら、絵に描いた餅で終わります。理由はいくつもありますが、石原社長時代の最大の根源は塩路一郎氏を頂点とした労組と経営の軋轢でした。
労組、経営陣の内部抗争が止まらない
戦後まもない1950年代、日産はトヨタ同様、大争議に直面。収拾するため、労使協調路線の労働組合が結成されました。労組委員長の塩路一郎氏は自動車総連トップにも就任、日産の経営に大きな影響力を保持し続けました。
こんな逸話があります。日産幹部は経営会議に諮る議案を持って、銀座の高級クラブに日参したそうです。そこには塩路氏が待っており、OKを得られなければ経営会議は進まないのです。私も若手記者の頃、塩路氏が馴染みにしていた銀座の高級クラブの前で立ちんぼした情けない思い出があります。
カルロス・ゴーン以降の経営陣の崩壊ぶりを予言するかのような社長・会長の対立もありました。本来なら石原社長を支持する立場の会長にある川又克二氏が塩路氏の側に立ち、石原路線を批判したのです。当然、社内は「誰が一番偉い人なのか、誰の指示に従えば良いのか」と右往左往。
見かけはトヨタに次ぐ世界の日産でしたが、内実は社内抗争に明け暮れるダメな会社の典型でした。これでは「強い会社」になるわけがありません。
1985年、石原氏に代わって就任した久米豊社長は、技術出身だけあって経営判断は明快でした。「1990年代までに日産の技術を世界一をめざす」という901活動を展開します。日産は高い技術力がありますが、販売が下手な自動車メーカーです。日産再生の狙い目は的を射ていました。
時はちょうどバブル経済に向かう時です。「シルビア」などスポーティーカーを次々とヒットさせ、高級車「シーマ」は「シーマ現象」というバブルの代名詞になる流行語となったほど当たりました。低迷した国内シェアは回復に向かいました。
久米氏は経団連会長に選ばれる寸前
久米社長の経営者としての評価は高まり、経団連の会長に選ばれる寸前でした。
当時の経団連会長は東京電力の平岩外四会長。彼は早くからソニーの盛田昭夫会長を後任する考えでした。「世界の各国と貿易しなければ生きていけない日本。経営者は英語を駆使して世界とコミュニケーションできる人物でなければいけない」が理由です。といっても本音は盛田氏の出身は平岩会長と同じ愛知県の常滑だったこと。平岩会長の常滑愛は並々ならぬものでした。不幸にも盛田氏は経団連会長決定寸前に急死。
後継としてトヨタの豊田章一郎会長が浮上しましたが、平岩会長の評価は低く、代わる人物として名前が上がったのが久米氏でした。販売シェアの低下や激しい労使関係などの難問に直面する日産をなんとか再生する手腕に注目したのですが、なにせ日産の経営体力が弱すぎました。
経団連はカネと人が必要な組織です。会長企業の負担は計り知れない。平岩会長は日産の体力では会長業務を支えれないと最終判断した。財力があるトヨタの豊田会長を選びました。
治癒不能な病巣が組織全体に
久米氏の前任である石原氏は経済同友会の代表幹事になっています。石原、久米両氏の識見と実行力は経済界から高く評価されていたと言って良いでしょう。それだけの人材を輩出していながら、平岩会長の慧眼通り、日産の業績は1990年代のバブル崩壊後、赤字経営が続きます。
日産の組織全体に治癒不能なほど病巣が深く広がっていたのです。=続く
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