日産・ルノーが教えること②過去の栄光とトヨタを捨てる覚悟
「日産自動車がルノーと提携して良かったこととは何か」と問われたら、すぐに浮かぶ答えは「トヨタ自動車を追走する呪縛から逃れたこと」です。
トヨタと肩を並べて日本の自動車市場を牽引してきたつもりが、いつのまにかトヨタの背中を追う立場に。負けるわけにはいかない。トヨタの後塵を拝するなんてありえない。自らを鼓舞しますが、縮まるどころかトヨタの背中は遠のくばかり。1980年代から不完全燃焼し続ける日産を見ていると、胸の内をこう想像してしまいます。
トヨタに負けるわけにはいかない
なにしろ日産は日本の自動車産業のど真ん中を走り続けてきました。創業は1933年12月ですが、最初の一歩は日本産業コンツェルンを成した鮎川義介です。日産の日産自動車前史によると、物語は1910年(明治43年)の戸畑鋳物から始まります。その後はかつて日産のブランド「ダットサン」の由来となったダット自動車製造を収め、途中「いすゞ自動車」がスピンアウトで誕生。1930年代に日産、トヨタ自動車の前身である豊田自動織機自動車部が相次いで創業します。
日産、トヨタ、いすゞは日本の自動車御三家と呼ばれ、その気位の高さは予想以上です。いすゞは事業主体がトラックメーカーに切り替わったにもかかわらず、2000年まで乗用車「ジェミニ」を生産し続けたのも、御三家としての誇りを捨て切れなかったからです。
御三家の自負は想像以上
まして日産の思いはいすゞの比ではありません。トヨタは本社・主力工場が愛知県豊田市にあることから「三河の田舎」と揶揄される一方、日産は東京・銀座に本社ビルを何本も構えます。林立するビルの様相が米国デトロイトのGM本社に似ていることから、日本の産業をリードする日産の過剰な気負いすら覚えました。
日本の自動車産業はトヨタと日産の競い合いの歴史です。「サニー・カローラ」「セドリック・クラウン」と時代を映し出すヒット車を放ちますが、話題の主役はいつも日産。日本の高度経済成長期を象徴する「スカイライン」が極め付きです。1972年に登場した4代目は「ケンとメリーのスカイライン」のCMとともに若者の心を虜にしました。クルマが将来の豊かな生活を体現するアイコンになった瞬間です。
スカイラインは日産衰退も照らし出した
実は、「スカイライン」のまばゆい輝きは日産が衰退する未来も照らし出していました。話題性を追うあまり、日産の新車戦略に歪みをもたらしたのです。スカイラインを産んだのは元プリンス自動車工業出身の技術者。櫻井眞一郎さんが有名ですが、実際にお会いした時もクルマを極める熱い思いにそのカリスマ性を感じたものです。ただ、カリスマ性が社内では疎まれる時も。
プリンス自動車工業は画期的なクルマを世に送りましたが、経営不安に陥り日産が1966年8月に吸収合併しました。スカイラインのみならず「プリメーラ」など日産から輩出した名車はプリンス出身の技術者が開発主査となっています。ただ、どんなに優れた新車を開発し、ヒットさせてもプリンス出身者はいつまで経っても日産では傍流。
経営の主導権は日産生え抜きが握り続けます。トヨタとの差を少しでも縮めるためにはヒットの連発が不可欠。開発現場が次代を告げる画期的な新車を創案してしても、経営陣の口出しで全く違うクルマに変わって発売されることもしばしば。「技術の日産」を自負していても、追いかけるトヨタの背中に目を奪われ、その技術を製品化できないのが日産の宿痾でした。
初代が大ヒットしても二代目は失敗
こんなジンクスがあります。日産は初代に大ヒットしたクルマは二代目で失敗し、その後に立ち消えする。新車開発に横やりが入り、失敗する。1980年代に「シーマ現象」と呼ばれるヒット車をかっ飛ばし続けますが、結局は経営は安定せず。ホームランバッターを揃えても、野球は勝てない道理をなぞるよう。、経営陣はその責任を負わず、再び失敗を繰り返す。会社が浮上するわけがありません。
これに対しトヨタは自らの限界をわきまえています。デザインは無骨で日産の華やかさにとても及びませんが、多くのユーザーに訴求するポイント、「トヨタは故障しない」を追求します。「エンジンの耐久性だけは絶対に負けないように開発した」とある開発担当専務が苦笑しながら、打ち明けてくれました。
トヨタは「いつかはクラウン」に代表されるように購入する所得層の身の丈にあった車種構成をそろえ、一度トヨタ車を購入したら、所得など生活の変化に合わせて買い替え続ける販売戦略の確立に成功します。
国内販売だけではありません。海外現地生産による世界戦略も同じ轍を歩んでいます。日産は米国、英国とトヨタに先んじて現地工場を建設します。日産のテネシー州スマーナ工場が操業したのは1983年。トヨタのケンタッキー工場は1988年に第一号車を生産しました。5年遅れです。
世界戦略でもトヨタに先んじたい
1980年代、当時の石原俊社長は日本企業の世界戦略を提示する気概を持っていました。日産が模範を示すのだ。トヨタにとっても米国は最重要市場でしたが、海外の工場はオーストラリアなどでまずは練習。米国もGMとの合弁を経て単独進出を決断します。どちらが正解だったか。結果だけをみれば、トヨタです。
日産は国内販売の立ち遅れを海外で取り戻そうという思いがありました。「銀座の通産省」として「三河の田舎」に世界企業とはどういうものかを示す勢いでした。
乱暴な見方であることは承知です。ただ、日産が不要なほどトヨタを意識して新車、国内販売、海外進出を決め、それが空回りしてきたのは否定できないでしょう。もちろん、トヨタの失敗も数多いのは知っています。
日産はトヨタのエラーをチャンスに活かせないほど背伸びしていたのです。
ルノーとの提携で創業以来の重荷を降ろす
ルノーの軍門に下る形となった資本提携を決断した時、トヨタの背中を追いかける気力すら失った日産がそこにありました。日産以上に消耗しているルノーとはいえ、お互い生き残るための決断です。幸運だったのは日産にとって目の隅から消えないトヨタの姿を見えないフリをして経営改革に専念できるきっかけでした。
1999年3月、ルノーとの資本提携の発表は、トヨタとの決別の時でもありました。当時の塙義一社長の表情が忘れられません。創業以来、社長の両肩にずっしりとのしかかった責務を降ろし、すべてを捨てる覚悟を知りました。