出井さん、スーパースターに疲れ、ゴッホのように聞く耳を忘れる

 出井伸之さんがお亡くなりました。とても残念です。寂しいです。

 出井さんと初めてお会いしたのは1991年。新聞社で電機産業を取材するグループのキャップに就いた時期です。出井さんはソニー取締役で広報担当を務めていました。当時のソニー本社は五反田駅から結構歩く場所にありました。山手線は渋谷、恵比寿、目黒と華やかなイメージの駅が続きますが、五反田からは雰囲気がガラリと変わります(注;当時です)。ソニーという世界企業の本社に向かう道中は、敗戦後から高度成長を果たした日本の40年間の変遷を見て歩くようで、楽しかった。

 過去に取材したトヨタ自動車や日産自動車と違い、ソニー本社はいくつかのビルに分かれ、町工場から大きくなったぞという空気が残っていました。出井さんはたしか広報宣伝本部長。ソニーの派手な広告イメージを勝手に抱いて向かったオフィスは思ったよりも地味だったのを覚えています。しかし、ご本人は快活で弁舌滑らか。見た目も今で言えばイケメン。しかも欧州生活が長いので、すべてが垢抜けています。将来の社長候補なんて噂は全くないころです。常に貴族的な空気を漂わせる大賀典雄社長と違って、気軽に話せる取材先として仲良くさせていただきました。

ブレードランナー、マイケル・ジャクソンをサカナに

 東京都の高級住宅地の成城に初めて行ったのも、出井さん宅の夜回りがきっかけでした。高級住宅街は目当ての家を探すのが結構難しく、ようやくたどり着いたら出井さんはその夜、映画「ブレードランナー」のディクレターズカットの試写会から帰ったばかり。奥様とご一緒に3人でブレードランナーのあれこれをサカナに盛り上がり、その勢いではマイケル・ジャクソンの話題に。5年ぐらい前の来日コンサートに行ったことがあったので、「豆粒みたいな小さな姿だったけれど、歌、ダンス、演出すべてが身近で感じる。スーパースターが発散するオーラと才能は他と比較できない」とわかったようなことを説明したら、もうエンターテインメント・ビジネスの可能性を遅くまで話すことになりました。

 1990年代のソニーはホンダと並ぶ戦後生まれのスーパースター企業です。トランジスターラジオの大ヒットで世界の舞台に飛び出し、カラーテレビ用ブラウン管のトリニトロン、携帯音楽プレーヤーのウオークマンなどで映像・音楽のビジネスで世界的な大ヒット製品を世に送り出していました。出井さんは欧州に10年ほど駐在した経歴の持ち主ですが、ソニーの世界ビジネスのど真ん中にいたわけではありません。ソニー経営陣の主流を占める技術・工学系の大学出身でもなく、ソニーの経営をちょっと距離を置いて眺める立場でした。米国で政治経済を牛耳るワシントンやニューヨークを批判する際によく使われる「東部エスタブリシュメント」を例えに、「目の前の成功を否定できない保守的な考えに抗するのは難しいが、負けてはならない」とソニーの未来を語る時もありました。

ソニーが閉じこもる堅い殻を破壊する力に期待

 ソニーがパソコンやゲーム機への進出するのではないかとの噂が広まっている時期でした。出井さんはパソコンにもゲーム機にもやる気満々。サードパーティーという言葉を使い、外部との連携の需要性を盛んに強調します。映像や音楽などハードウエアの技術に自信満々のソニーです。ソニーに負けないぐらい唯我独尊だった任天堂がハードウエアとソフトウエアの開発で外部と連携する柔軟な戦略を研究していました。技術のソニーが知らぬ間に自身が築いた堅い殻に閉じこもっているのではないかと危惧していたと思っています。

 大賀社長はそんな出井さんをどうみていたのか。1995年6月、取締役から1五人抜きの抜擢と話題を巻いた社長就任でしたが、大賀さんの胸の内は複雑だったと察します。「消去法だった」とポツリと話したそうですが、有力候補だった技術出身の副社長が今でいうハラスメントまがいの疑いが広がり、社長候補の選択はゼロから始まります。それでは出井さんの評価はどうだったのか。社長就任よりだいぶ以前の話になりますが、1993年に東京メトロポリタンテレビジョン(MX)が設立される時、社長候補に出井さんの名前が流れたことがあります。あくまでも噂レベルですが、「ソニーは出井を必要としていない」という受け止め方をされました。

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