「いつかはクラウン」の終幕 セダンの終焉はコモディティ化を加速 日本のクルマ文化も
トヨタ自動車の「クラウン」がフルモデルチェンジする時期が近づき、後継モデルがどう変わるのか注目を集めているようです。新型クラウンは6月にも登場するそうですが、新たにSUVタイプが加わるというびっくりする噂も流れています。
全面改良でSUVのようなデザインが加わるかも
トヨタは高級ブランド「レクサス」を1989年に米国、2005年から日本でも投入しています。トヨタブランドの最高級車としての王座はすでに17年前からレクサスに譲っていますが、クラウンは日本の自動車文化を象徴する存在に変わりはありません。
昭和の高度経済成長を実感させるモータリゼーションはクルマのヒエラルキーも形成しました。サラリーマン社会は所有するクルマの種類にも反映され、自宅の車庫に並ぶ車種で会社の役職がわかるという笑い話もありました。クラウンが車庫にあれば部長か役員、「マークⅡ」なら部長寸前という感じです。出世の階段に合わせて買い替えていく発想から「いつかはクラウン」という言葉が当たり前のように聞こえたものです。
クラウンは日本だけに設定されたブランドです。当然です。日本のクルマ文化を体現するクルマだからです。欧米と違ってドライバーを中心に設計されていなかったからです。クラウンの所有者が座るのは後部座席。ゆったりした空間とふわふわしたシート。サスペンションは路面の衝撃を吸収してもまだ余裕を感じる柔らかさ。そうです、リビングルームなのです。リアトランクの空間はたっぷり。ゴルフバッグを3つぐらいは収納できないとだめ。ベンツの日本法人社長がドイツ本社に「ゴルフバックがいくつも収納できるトランクに設計してもらわないと日本ではヒットしない」と頼んだ逸話があるほど。極め付きはマッサージ器。黒塗りのハイヤー仕様で後部座席にマッサージ機能を備えました。外国人が知らずに操作ボタンを押して飛び上がったそうです。私も体験したことがあります。首都高のガタガタした道路の継ぎ目を走りながら、背中当たりでゴソゴソと拳のような機械が上下するのは疲れが取れるというよりも、妙な緊張を感じて疲れました。
日本のクルマ文化の頂点に立つのがクラウン
日本のクルマ文化の頂点に立っていたクラウンは当然、セダンじゃなければいけません。日産自動車、ホンダ、三菱自動車、マツダはクラウンが創り上げたセダンの世界に何度も挑みましたが、日本人が信じるクラウンの世界観には迫ることができません。日本人が好むカレーが本場インドのカレーと全く異なると同じかもしれません。
そのクラウンの次期モデルがひょっとしたらSUVのようなクルマになって現れるかもしれないのです。すでに前回のフルモデルチェンジで後部座席を重視した世界観を捨て、走りを楽しむ操縦安定性能を軸にした設計思想に切り替わっています。購入層をもっと若返らせたいという思惑が込められていました。従来の購入層には不人気だったようで、販売はあまり芳しくないと聞いています。しかし、トヨタのある役員は「エンジン、足回り、車内装備などどれをとっても熟成しており、そのクラウンをあの程度の値段で買えるのは割安だよ」と苦笑していました。
自動車産業はレースに例えればもう最終コーナーに突入しているようです。エンジンから電気自動車へ急速なシフトが進む一方、販売方法も車両を購入し保有することから、カーシェア、リース、さらに定額料金を支払って利用するサブスクリプションなど多様化しています。運転はもう直に自動運転が当たり前となり、人工知能が安全に目的地に連れて行ってくれます。一台のクルマを自分の体にように労り、ペットのように愛情を注ぐ所有方法は、もう時代遅れになっています。昭和、平成、令和と時代を貫いた自動車の産業構造、そして文化は最終のゴールを目の前にしているのです。
最近、日本の自動車各社が相次いで新型スポーツカーを発表している理由がわかりました。SUV型のクルマが需要のど真ん中になった今、新車を確実に購入してくれるのはスポーツカーなど走りを楽しむ消費者だけだからです。少数派とはいえ、クルマの歴史をなぞるようにクルマ文化を愛し楽しんでくれる。
クルマはコモディティに、移動する手段
言い換えれば、クルマのコモディティ化が加速しているのです。移動する手段として選ぶか、クルマ文化をこれまで通り楽しむのか。クラウンはコモディティの波とシンクロできるクルマじゃありません。日本からセダンが消え去り、車内空間をリビングルームのように楽しむクルマ文化の終幕を私たちは目にしているのです。クラウンというかつての大看板が舞台から降りる姿を見るのはちょっと寂しい。