実録・産業史10 終焉を迎える創業家による経営 トヨタは豊田家か
トヨタのカンバン方式イコール日本の製造業はハズレ
トヨタはよくカンバン方式に代表される日本の製造業の強さを体現していると評されますが、日本のものづくりの象徴、言い換えればトヨタ自動車イコール日本を代表する製造業というステレオタイプ的な理解はハズレかなと思っています。むしろトヨタは日本の製造業が築いた信頼に救われ、窮地を突破してきた会社です。だからこそ日本の製造業が内包する弱さも抱えているのです。今のトヨタは日本の産業全体が創り上げた偶像かもしれません。それが「100年に1度」と連呼されるカーボンゼロ時代にはからずも弱点が綻びから見え始めているのです。
トヨタの創業の歴史を、かいつまんで振り返ります。豊田佐吉さんが創業した豊田自動織機に1933年に自動車部を創設したのが始まりです。創業者の豊田喜一郎さんらが奮闘してなんとか四輪車が実用化し、戦後を乗り切ります。しかし、1950年にドッジ・ラインによるデフレの直撃を受け、経営危機に陥り、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売に分離してなんとか乗り切ります。この経営危機時、資金や取引を維持した企業と手を引いた企業はその後、天国と地獄を味わいます。豊田喜一郎社長の辞任や従業員の削減などの大幅な経営合理化を経て再建した後、資金など身を引いた住友銀行、三菱銀行、取引を停止した川崎製鉄などは一切再開せず、ようやく関係を修復したのは50年ほどの年月を経過してからです。
トヨタを知るキーワードは1950年の経営危機
トヨタ自動車を理解するキーワードはまさに1950年の経営危機です。トヨタの経営幹部は異口同音に語ります。「トヨタはあの経営危機を共にした会社とは死ぬまで付き合う。しかし、たもとを分けた会社は絶対に取引しない」。この思いがトヨタが事業展開するうえでの判断基準の一つになりました。
自動車メーカーの個性を語る時、次のような例え話を教えてもらいました。取材先からよく言われました。釣り竿を持って釣り堀に糸を垂らすと、まず食いついてくるのが日産自動車。しばらく様子を見ながらグルグル回っているんだけれど、ふっとそばに寄ってくるのがホンダ。最後までエサの様子を探って慎重に見極めて、1度食らいついたら離れないのがトヨタ」。三河の田舎者と揶揄されながらも、自社のスタンスは変えないトヨタの面目躍如といったところでしょうか。
米GMと提携交渉に伴う笑い話もあります。トヨタは豊田市の本社ではさすがにいろいろ支障があると考えて東京・後楽園に事実上の東京本社を設けました。トヨタは1982年、米国現地生産の布石としてGMと合弁生産することで合意しました。日本を訪れたGM幹部を乗せた車が成田空港から東京・後楽園の本社へ向かったところ、GM幹部はニューヨークのマンハッタンとまで行かなくても東京・丸の内か大手町のイメージのオフィスに向かうと想定していたのでしょう。次第にビルが少ない寂しい街区が続き始めたので、トヨタという会社は大丈夫かと不安になったそうです。そうですよね。米国でGMは自動車の街デトロイトにその象徴となるビルを建設しています。日産自動車の東銀座の旧本社ビルはGM本社をまねたといわれるほど自動車メーカーとしての誇りとおごりを持っていました。それが地味な街(後楽園、御茶ノ水界隈の方、ごめんなさい)にあるビルに車が向かうのは想定外できなかったのもうなずけます。しかし、「見栄えは気にしない。コストパフォーマンスが優れているなら選択する。良いものは良いのだ」これがトヨタの真骨頂です。