アフリカ土産物語(12)マンデラ追想 闘志の源泉は故郷の雄大な風景
雨上がりの草原に全人種融和の「虹の国」が
淡い緑色の草原を包み込む黒雲から稲妻が光り、雨上がりの草原に七色のアーチが架かった――。インド洋に面した港湾都市ダーバンから内陸に約250キロ走り、起伏ある丘をいくつも越えてネルソン・マンデラ元大統領の故郷へ向かう時に見た光景だ。それはまさに彼が掲げた全人種融和の「虹の国」のイメージだった。
ウムタタのネルソン・マンデラ博物館
「あのようなスケールの人物の故郷はどんなところだろう」。2003年暮れ、そう思って南アフリカ南部の都市ウムタタにやってきた。街の中心部には、ネルソン・マンデラ博物館がある。彼の足跡を紹介するパネル展示の中には珍しいボクサー姿の写真もあった。
地平線まで丘が連なる雄大なパノラマが不屈の精神を育む
さらに30キロ西のクヌという集落へ。地平の果てまで波のような丘が幾重にも連なる雄大なパノラマに、「この風景こそ彼の心の原風景なのだ」と実感した。広々とした大地が差別と闘い抜く不屈の精神と大局観を育んだに違いない。
「子どものころ、マンデラさんはロバに乗っていて落ちたことがありました。周囲の友達から冷やかされ、他人のプライドを傷つけないことの大切さを彼は身をもって知ったのです」。地元の女性が興味深いエピソードを口にした。相手を尊重する対話姿勢を重んじたのは、そうした幼少時の体験があったからかもしれない。
博物館に展示されているボクサー姿の若きマンデラ
丘の中腹に花崗岩の広い塊が現れた。「マンデラさんが滑り台代わりにして遊んだ場所です」。そう聞いて20メートルほど滑り降りてみた。目の前の大平原から雲が沸き立っている。「ここから世界に向かって飛び立とう」。すっかりマンデラ少年の気分になった。
南アの黒人はアパルトヘイト(人種隔離)政策に基づく法律で全国土の13%の辺境の土地をあてがわれ、10部族ごとに農村部での居住区(ホームランド)に隔離された。ウムタタのある東ケープ州はかつてトランスカイと呼ばれ、やせた土地のホームランドを抱えていた。
マンデラが生まれた住居跡
青年マンデラは1952年、ヨハネスブルクで初の黒人法律事務所を開設、黒人の権利獲得を目指す活動を始める。1962年8月に逮捕され、国家反逆罪で終身刑を受けた。服役中に白人政府から示された反政府活動の放棄を頑として拒み続け、1990年2月に釈放された。そのとき、「子どものころに遊んだ故郷を見てみたい」と語った。
釈放時、「子どものころに遊んだ故郷を見てみたい」
クヌから彼の生地ムベゾまで1時間ほど未舗装の道を走った。切り込んだ渓谷を見下ろす斜面に円形の民家の跡があり、村人は「ここでマンデラさんが生まれた」と胸を張った。
マンデラが通ったフォート・ヘア大学
さらに西へ向かい、マンデラが学んだフォートヘア大学を訪ねた。アフリカ各国の政治指導者を輩出した高等教育機関だ。反アパルトヘイト闘争でノーベル平和賞を受賞し、盟友マンデラとともに「虹の国」の理想を掲げたデズモンド・ツツ元大主教(1931-2021)も在籍した。
95歳で闘いを終え、故郷クヌで眠る
狭い独房に耐えたマンデラの闘志の源泉は、あの広々とした故郷の大草原だと確信する旅となった。95歳で闘いを終えたリーダーはいま、故郷クヌの地で眠っている。(城島徹)