アフリカ土産物語 (4) ガンビア「ルーツ」の源流を訪ねて

2001年秋、85歳のビンテ・キンタさんに会う

 西アフリカから18世紀後半に奴隷としてアメリカに渡った青年とその一族の物語「ルーツ」をご記憶だろうか。米国人作家、アレックス・ヘイリーが「クンタ・キンテという若者が奴隷商に連れ去られた」という祖母の記憶を頼りにガンビアのジュフレ村を訪れ、古老の言葉から一族の出自を突き止めた。未知の国で生き抜く一族の叙事詩的作品は1976年に刊行され、テレビドラマも大ヒットし「ルーツ探し」の言葉を生んだ。

 そのルーツの〝故郷〟のジュフレ村を私が訪ねたのは2001年の秋だった。トタン板の小屋にたたずむビンテ・キンタという85歳の老婆はこう言った。「アメリカからやってきたヘイリーさんと話しているうち、大西洋を隔てた私たちがともにクンタ・キンテから数えて七代目の子孫だと分かったの。その瞬間、彼は大声をあげて泣き出しましたよ」

 灼熱の太陽のもと、鮮やかな緑の木々の茂みに踏み入ると、崩れかけた石造りの建物が現れた。「ここは奴隷の留置場所で、何百人もの男女が押し込められた。許すことのできない歴史だ」。現地を案内した22歳の青年は真顔で言った。ふと見上げると、遠い日の出来事を見つめていたであろうバオバブの太い幹がそびえていた。

クンタ・キンテ島をのぞむ

クンタ・キンテ島をのぞむ

 ガンビア川の岸辺に出ると、流れの中に小さな島が浮かんでいた。西アフリカの奴隷貿易の拠点となったジェームズ島だ。その後、関連遺跡群とともにユネスコの世界遺産に登録され、2011年にルーツゆかりの「クンタ・キンテ島」と改名された。周囲数百メートルの島に渡るとき、小舟に乗り合わせた地元の若者は「泳いで逃げた奴隷は力尽きて死んだか、ワニに食われて死んだ」と顔を曇らせた。

風雨に侵食された石造りのジェームズ要塞

壁には爪で削った無数の跡が

 17世紀半ば、英国がこの島で奴隷を運び出すために築いたジェームズ要塞はフランスと交易で張り合うなか徹底的に破壊された。風雨に浸食された石造りの遺跡がゴツゴツとした肌をさらし、浜辺にはさびた大砲が置かれていた。薄暗い地下牢に下りると、壁に鉄の輪が残り、周囲に直径約2センチのくぼみが無数にあった。「鎖につながれた奴隷がもがきながら爪で削った跡だ」と先の若者が声を絞り出した。

 アフリカにルーツを持つアメリカの黒人たちは長く虐げられてきた。公民権運動を経た現代もなお、白人警官に殺されたジョージ・フロイドさんの例があるように、黒人の受難は続く。そうした歴史のなかで、黒人が多く暮らすニューオーリンズでは黒人が亡くなって埋葬されるとき、天国に旅立てるよう祈るジャズの「聖者の行進」が奏でられるという。

木彫りの表情は奴隷の苦しみと重なる

瀬川昌久さんを「聖者の行進」で葬送

 遠い世界の話のようだが、このスタイルの葬送を私が初めて体験したのはジャズ評論家、瀬川昌久さん(2021年12月29日、97歳で死去)を偲ぶ4月6日の「お別れの会」だった。

 1950年代にチャーリー・パーカーやビリー・ホリデイのライブを観ている瀬川さんとは晩年、ライブや懇談のお供をさせていただいた。彼の遺志により式典ではジャズの生演奏が流れ、最後の「聖者の行進」では金管の響きと参列者の盛大な手拍子が故人に送られた。

 感動的な葬送のなか、私はジュフレ村と日本が時空を超えてつながる感慨に浸ったのだった。(城島 徹)

 

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時にはモノなき土産話もあります。

 今世紀初頭の3年間、アフリカを特派員として飛び回った筆者が各地の土産にまつわる「こぼれ話」を綴ります。とはいえ紛争絡みの取材など、土産とは無縁の出張が多く、「モノなき土産話」も含まれますのでご容赦ください。(元新聞記者・城島徹)

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