輪島塗の合鹿椀 素朴で逞しく誰からも愛される 能登を再生する力

 石川県はじめ北陸3県、新潟など日本海側の地域で能登半島地震による甚大な被害が広がっています。新聞記者駆け出しの頃、大袈裟でなく地べたを舐めるように這い、取材した地域ばかりです。人事異動で金沢市に赴任し、新婚生活を始めたこともあって、本籍を金沢市に移し「生活する場所が故郷」と腹を括りました。以来3年間、石川県内を車と足で駆け回りましたが、いつの間にか輪島市や珠洲市など能登に向かう自分に気づいたことがあります。

「能登はやさしや土までも」

 能登は心の安らぎを与えてくれる土地です。「能登はやさしや土までも」と言われます。まさにその通り。加賀百万石を誇る金沢市とは対照的な地域です。金沢は前田利家が入城してから400年が口癖と思うぐらい誇り高い街。茶、能、友禅、漆器など伝統工芸が煌びやか。しかも身近でした。地元の経営者から「茶道や能など2芸できて1人前。君は何ができる?」と問われ、北海道育ちで無芸無才の私は下を向くだけ。敷居の高い街でした。息を吸っているだけでちょっと疲れる時もあります。

 そんな時は輪島に向かいます。輪島塗りの商人が全国を回り、売って歩いて繁栄を築いてきた街です。「旅の人」「外の人」といった距離感はなく、誰に対しても開放的。すぐに受け入れてくれました。北海道・青森の漁港で育っただけに、潮の香りがする空気に魚がうまい輪島市にすぐ溶け込みました。当時の能登海浜道路(現のと里山海道)で能登半島を縦に突っ切って、輪島市の入り口である「赤い鉄橋」を見るとホッとしたものです。

輪島塗の作業場は至高の時間

 元々、輪島塗の漆黒が大好き。輪島市では取材と称して輪島塗の職人さんの作業部屋に入り込み、下地や上塗りをていねいに筆で繰り返す作業に見入っていたものです。漆塗りはゴミを嫌い、温度や湿度の管理に気を使います。半導体工場のクリーンルームと同じですね。職人さんから信頼されなければ、入室できません。そばでじっと職人さんの素晴らしい芸を眺めている時は、まさに至高の時間でした。

門前町は昔の能登を体感する存在

 輪島市から西に位置する門前町は昔からの能登を感じる特別な空間でした。今は輪島市に編入されていますが、能登半島の後頭部に当たる場所にあり、町までの道は細く、くねくね。神経を使いながら辿り着くと、自然と生活が溶け込む能登の風景が目の前に広がります。曹洞宗大本山の總持寺があるため、門前町となったのでしょうが、總持寺の伽藍は厳かそのもの。境内に入ると、いつも無音の空間かと勘違いする錯覚に陥ります。大きく掲げられた力強い山岡鉄舟の筆遣い、書に魅せられ、輪島市の行き帰りではできるだけ立ち寄ることにしていました。

角偉三郎さんの合鹿椀

珠洲市と志賀町は発電所取材で一軒、一軒訪問

 珠洲市は雪道での思い出があります。当時、原子力など巨大な発電所計画がいくつも浮上していましたので、何度も何度も通いました。海風が強く、山沿いに家と道が張り付いている地域です。冬の道路はツルン、ツルン。車で坂道を上がっていたら、止まっている車があります。ちょっと高齢の女性が「チェーンが切れたちゃった」と立ち往生していました。そのまま通り過ぎるわけにはいきませんから、当時20歳代の若さで坂道を登り切るまで車を押し続けました。感謝されたのも束の間、自分の車が凍結路でスピン、クルクル回りながら反対車線から近づくバスと衝突寸前に。バスの運転手さんはさすがです。笑いながら慣れた操作で衝突を回避してくれました。

 北陸電力の志賀原発が立地する志賀町は、今でも小さな道筋が目に浮かぶほど通いました。珠洲市もそうですが、発電所建設は地元の多額の資金が落ちますが、建設については賛否が分かれます。住民の声を聞きたいと考え、志賀町や珠洲市で一軒、一軒訪ね、お話を聞きました。

 その能登が地震で家が倒壊し、山が崩れ、道路が寸断されています。輪島市内には漆芸家らの工房が多く、家の倒壊で輪島塗の作業場、作品、蓄えた貴重な漆や筆はどうなったのでしょうか。門前町や珠洲市では孤立した集落が多々あると伝わっています。珠洲市の観光名所、見附島はまた崩れてしまったのでしょうか。

角さんの合鹿椀で大酒

 手元に合鹿椀があります。漆芸家の角偉三郎さんが制作した作品です。角さんとは、大向広州堂の大向稔さんに紹介され、一緒に大酒を飲んだことがあります。角さんは酒を飲みながら、漆器の原点は柳田村(2005年に能登町)の合鹿地区で作られていた「合鹿椀」にあると説明し、古代からの生命力を表現するため漆を手で塗るんだと話します。漆はちょっと触っただけでかぶれます。それを手塗りでやったら、どうなるのか。酔った頭がさらにクラクラし、目の前にある合鹿椀に日本酒を注ぎ飲み続けたら、角さんとの貴重な時間のほとんどが記憶から吹き飛んでしまいました。角さんは2005年に65歳でお亡くなりになりました。さらなる素晴らしい漆器を期待していただけに、悲報を聞いた時はとても驚き、悲しかったです。

 角さんの合鹿椀は今も、一生の宝物としてお正月には食卓を飾ってくれます。その合鹿椀でお酒を飲むはずだった2024年正月の夕方、能登地方は震度7の地震に襲われました。

素朴だが堅牢さから生命力が溢れる

 合鹿椀は素朴でなんの装飾も見当たりません。椀の縁は布が張られ、堅牢そのもの。肉厚の生地に粗く漆が塗られ、漆黒の輝きを放つ輪島塗とは違います。鈍い光を放つ漆黒はその存在感から生命力を感じさせ、その重量感は新たな力を呼び起こします

 合鹿椀は能登の強さの源の一つに過ぎません。能登は必ず再生します。輪島塗、海と山の幸を楽しむ朝市、そして開放的に人を出迎えてくれる能登の皆さん。角さんの合鹿椀と共に応援し続けます。

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