65歳から始めたメディアサイト制作 西脇順三郎「失われた時」を求めて
西脇順三郎全集の第2巻を読んでいます。全集12巻を購入した古本屋さんのご主人が「死ぬまで全巻を読む人なんかいないよ」という言葉に励まされて、読めるところまで読もうと考え、1作、1作を堪能しています。
第2巻ではこの詩人の代表的な作品と評される「第三の神話」を読み終え、今は「失われた時」を読んでいます。通常の作品は全体を象徴するタイトルの後、小さなタイトルが付いた短い詩が綴られ、それぞれが共鳴しながら総和の味わいを奏でるのですが、「失われた時」はⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳのナンバリングがあるだけ。小さなタイトルは無く、詩を構成する言葉が大きな潮流にゆったりと押し流されるように目の前を過ぎていきます。
長い詩は短編小説を凌ぐカロリー
「失われた時」は全集のページ建てでいえば99ページから156ページまでの57ページにわたります。とても長い詩です。小説に比べ少ない文字数ながら、詩が醸し出す世界観は短編小説のカロリーを軽く凌ぎます。
正直、内容はちゃんと理解できません。詩には数えきれないほどの花の名や地名、神話・逸話、世界史がふんだんに散りばめられ、詩が投射する映像がなかなか目の前に浮かび上がりません。時折「オシャマンべで買って来た蟹をハコダテの歯医者さんからもらってナナカマドの木の下で喰べた」の一節を見つけ、自分が育った函館の地名や思い出を重ね、ほっと息をつくぐらい。
文章の組み立ても通常なら、ここで改行!といった区切り方はしません。文章の常識に縛られずに並んだ言葉に、これまた常識を無視した改行。文章一つ一つに目を奪われるんじゃない、段落、あるいはいくつかの段落の流れを鳥瞰して、詩人が描く世界を見渡してほしい。そんな詩人の視線を背中に感じます。
「失われた時」は私にとっては新たな言葉と知識が途切れなく延々と続き、読み手の力が試されているような不愉快さも味わいます。でも、つらくはないのです。詩を読む時間は無限のように思え、まるで意味も分からず読むお経のように感じる時もあります。そんな迷路にハマり込んだ境地の時にふと気づきました。「あなたも延々と文章を書き続けられるのか」。詩人から、こう問いかけられていたのです。
サイトを制作する力はあるのかと問われる
毎日、メディアサイトに掲載する記事を考えています。内容よりも掲載が最優先に考え始めたら、もうおしまいと腹を括っています。自然に湧き上がってくる「書きたい固まり」を台無しにしないように努力しているものの、その固まりを思い通りに描けずにグジャグジャにしてしまい、苦笑いすることも。幸いにも、友人の力を借りてサイトのコンテンツ力は着実についてきたと考えていますが、コンテンツの強さを維持するのは本当に難しいと痛感する日々です。
「失われた時」は、そんなつまらない不安を覚えるならサイトなどはやめろと囁きかけます。なかなか痛い囁きです。
詩の一部を抜き出しても、理解不能だと思いますが、次の一節には完敗しました。
一は永遠にゼロをあこがれている
ゼロは永遠にゼロにならない
ここに宇宙の悲劇は残っている
それは神の配剤の喜劇だ
この一節の前には「荷物を背負つた人が休んでいる 棒の先でアラビヤ文字で砂の上で 天文と借金の計算をして悲しんでいる」があります。そして一節の後には「その男はヴァレリに似た男だ 村の入り口で喫茶店でのどのかわきを・・・・」と続きます。
短い一節で宇宙の根源を感じさせる
詩のワンシーンですが、目の前で見かけた風景から宇宙の根源を「一」「永遠」「ゼロ」の3文字で表現しながら、地球上で生活する人間が宇宙と一体の存在であることを表現しています。変幻自在、縦横無尽、天衣無縫・・・どんな言葉が適切かわかりませんが、詩人から湧き上がる言葉、無限の思索を縛ることはできません。
これだけの思いが沸々と湧き上がらない限り、サイトの制作は持続できない。そう痛感しています。かなり痛い。