根室と函館④高田屋嘉兵衛の栄光、200年後の継承と昇華

 函館で住んでいたころ、高田屋嘉兵衛の姿を見て育ちました。自宅は青柳町。石川啄木が歌った青柳坂はすぐそこに。10分も歩くと小さな公園があり、高田屋嘉兵衛の象が立っています。真正面には函館山、護国神社。友人とよく遊んでいました。大洋漁業に勤めていた父親が「高田屋嘉兵衛はすごい男だ」と口癖のように教えてくれたせいか、「きっと大変えらい人なんだ」と見上げていたものです。

函館市の高田屋嘉兵衛像

幕末前に北海道、ロシアの貿易・外交を支える豪商

 高田屋嘉兵衛は1769年、淡路島の生まれ。海運が盛んな瀬戸内海で船頭として活躍。1796年に北前船による海運業を北海道にまで手を広げ、函館に拠点を移した後は多くの事業を興します。オホーツク海の国後島、択捉島までの航路を拓き、ロシアと日本の貿易、そして外交まで背負う人物でした。今で言えば三菱財閥並みの迫力だったのでしょう。

 根室にも高田屋嘉兵衛の像があります。1986年(昭和61年)にできたものです。港がすぐ近くの金比羅神社の境内に立っていました。神社のある町名は琴平町。当然です。嘉兵衛は淡路島出身ですから、船の安全を祈願して金比羅神社を建立したのでしょう。ちなみに函館の像は1958年(昭和33年)に函館開港100年を記念して設置されました。

 函館はかつて北洋漁業の基地でしたが、根室は今でもオホーツク、北方4島を漁場とする全国でも有数の漁港です。神社の例大祭は根室最大のお祭りで、北海道三大祭りの一つです。

 夜の根室を散策した翌朝、向かいました。丘をのぼり、立派な境内でお参りした後、港方面に抜けると像がありました。高田屋嘉兵衛は根室の市街地を見渡しています。像を横目に港を見渡すと、氷結した港内を避けて陸揚げされた漁船が並び、その向こうの弁天島には赤い祠が見えます。嘉兵衛はここに金比羅神社の付属社として市杵島神社を建立したそうです。

遠くに弁天島が見える

 

 司馬遼太郎の「菜の花の沖」などで描かれる嘉兵衛は、漁場を仕切り、荒波を乗り越えて航路を拓く豪快かつ繊細な人物です。日露の外交問題に発展した「ゴローニン事件」では人質としてカムチャッカに連行されますが、自ら日ロ交渉を仲介して解決してしまうスケールの大きさには驚きます。小さいころから見上げていたこともあって15年ぐらい前、淡路島のお墓まで行き、お参りしました。

函館は嘉兵衛縁の地は観光名所に

 函館にあった屋敷跡周辺は、宝来町や末広町など幸運を招く町名が今でも残っています。幕末、下田と共に開港した後、横浜や長崎と並ぶ貿易の拠点として発展。海外の文化なども流入しました。1920年代には全国でも第9位の人口にまで膨れましたが、その後は嘉兵衛が築き上げた栄光の勢いは失われます。住み、遊んでいた青柳町や元町などは西部地区として歴史的な繁栄が観光名所になっていますが、なんともさみしい。

金比羅神社から見渡すオホーツク海は豊かな資源

 根室は違います。悲願である北方4島の返還は先が見えないものの、神社から見渡すオホーツク海は豊かな漁場であり続け、繁栄の可能性をまだ期待できます。弁天島を遠くに見ながら、高田屋嘉兵衛なら次はどんな手を打つのだろう?。かならずあるはずです。

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