高田屋嘉兵衛、碧血碑 函館がこれからも継承、繋ぐ精神
函館山の麓にある護国神社の坂を下ると、高田屋嘉兵衛の像が立っています。司馬遼太郎が小説「菜の花の沖」で描いた江戸末期の豪商です。子供の頃、高田屋嘉兵衛の屋敷跡地だった宝来町近い青柳町で育ちました。父親に連れられて散歩し、この像のそばを通ると「この人は世界を見渡して仕事をした、ホント凄い人なんだよ」といつも呟いていたのを覚えています。
日露の国際事件を解決した豪商
当然ですが、どんな人物か何も知りませんから「へえ〜」という印象しか残っていません。ただ、父親がそう言うなら、凄い人なんだと信じ、小学生の友人らと遊ぶ時はよく高田屋嘉兵衛の像を囲むようにぐるぐると走り回って遊んでいました。
父親は当時、北洋漁業基地だった函館市で水産業を仕切る”ボス”でした。地域の政治にも関わり、北方領土の近海でソ連に日本の漁船が拿捕されると、電話で協議している姿を覚えています。その父親が感嘆する高田屋嘉兵衛とはどんな人物か。高く見上げる銅像のイメージだけを引きずっているのも嫌なので、中高生の頃に調べたことがあります。そして世界観と度量の大きさに改めて驚きました。
高田屋嘉兵衛は淡路島出身で船頭としての実績を重ね、当時の蝦夷地、北海道へ渡ります。1801年には現在の北方領土である国後島、択捉島に至る航路を拓き、幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任命され、箱館を拠点に北海道と本州を結ぶ北前船などによる海運業で巨富を築きます。
函館の礎も築く
今は観光がぐらいしか明るい話題が見当たらない函館ですが、横浜と並んで海外に開かれた港として繁栄、昭和30年代は北洋漁業の基地、北海道と本州を結ぶ青函連絡船、大手造船会社「函館どっく」など港湾産業でも賑わい、全国でも主要都市に数えられました。その基礎を築いたのは高田屋嘉兵衛。その銅像が函館開港100年を記念した1958年に建立されたのも頷けます。高田屋嘉兵衛が亡くなってから132年が過ぎていました。
そのスケールの大きさは豪商の域を遥かに超えていました。民間人でありながら、日本とロシアの外交問題を解決していたのです。1812年に江戸幕府がロシア船ディアナ号の艦長ゴローニンを幽閉する事件が起こり、ロシアは代わりに両国の貿易で重要な人物だった高田屋嘉兵衛を人質としてカムチャッカ半島へ連行します。苦難を味わったにもかかわらず、彼はロシア政府と江戸幕府の橋渡しをしてゴローニン解放を実現、江戸幕府とロシア政府の衝突を回避しました。
箱館戦争の幕府軍戦死者を慰霊
そういえば、高田屋嘉兵衛のほかに父親は感嘆していた思い出が蘇りました。碧血碑です。戊辰戦争の末期、函館は明治政府と旧幕府軍の最後の戦地となりました。土方歳三が亡くなったことでも知られています。その戦死者は明治政府から放置を命じ、葬ったものは厳罰を処せられました。
しかし、当時、五稜郭の工事などを請負う地元の顔役であった柳川熊吉が遺体を集め、お寺に埋葬。明治政府から追及されましたが、柳川熊吉の堂々たる態度と考え方から結局は黙認したそうです。腹の座り方、肝っ玉の大きさには敬服します。
碧血碑は、幕府軍の幕閣だった榎本武揚、大鳥圭介らが1875年に建てたもので、戦死者約800人を弔っています。碧血とは「義に殉じた者の血は3年経つと碧玉に化す」という中国の故事に由来しており、慰霊祭はもう150年近くも毎年、開催しています。
碑の場所は函館山麓の谷地頭町にあり、近くには妙心寺、八幡宮のそばあります。今はだいぶ開けていますが、子供の頃は父親と訪れると鬱蒼した樹々の中に隠れるように立っていました。明治政府のお咎めを受けてもおかしくない慰霊の碑ですから、目立つわけにはいかなかったのかもしれません。碑が向かう方向には五稜郭があると言います。
自由に考え、実践する精神を継承
幕末、明治維新の時代の流れに抗い、勝負はもう自身でもわかっていたはずです。箱館戦争といえば、土方歳三の最後の地として有名になってしまいましたが、土方はじめ信念に従い、闘った人々はしっかりと慰霊したいです。
父親は樹々の陰に隠れた碑の前で、「信念で生きた人間は青い血になるそうだ。この人たちは凄い」とポツリと話していましたのを聞き、「自分の赤い血が青い血に変わる時はあるのか」と袖を捲って腕に流れる青い静脈を見たものです。
高田屋嘉兵衛、碧血碑。改めて並べてみると、函館の精神は自身の考えに従い、実行する挑戦なのだと気づきます。いずれも函館の観光名所として有名ではありません。それで十分です。函館も人口減に苦しみ、都市として衰えるかもしれません。しかし、自由に考え、挑戦する人を育てる街であって欲しい。それが閉塞感に苦しむ日本を打破する活力を生み出します。