戦闘機の遺跡

南太平洋 11回)ラバウルで日本とニホンを感じる(その3)

その老人は日本語で独り言のようにつぶやき続けます。実は誰に向かって話しているのかわからないのです。私の顔を見て話すわけでもなく、ホテルの周囲に日本人観光客がいると思うと日本語でつぶやき始める印象です。

「まだ子供だったし、日本語が良くわからない。だから言われたことができない。そうすると殴る日本の兵隊が多かった」「小さいから殴られるだけ」。こんな趣旨のことを語り続けます。「中村軍曹だけは優しかった。面倒を見てくれた」とさらに続けます。こちらから「いつ頃ですか」「中村さんはどんな人でしたか」など簡単な質問をするのですが、うまく伝わりません。その時は同行してくれた政府の広報担当者がそばにいなかったこともあって、これ以上会話が進みません。

日本人観光客を見つけては語り続ける老人

ラバウルは日本軍の戦略拠点でしたから、街には9万人余りの兵士が配備されていたそうです。それだけに軍は治安も含めて統制を整えた占領政策を展開したと聞いていました。だからといって現地の住民との摩擦や衝突は必ずあったはずです。お名前はわかりませんが、偶然にお会いした老人のつぶやきを聞いた時は、「申し訳ない」と率直に感じました。ただ、ちょっと不思議に思ったのは、その老人は私に話しかけた後、予想したほどのリアクションが得られなかったと思ったのか、他の日本人観光客に寄っていき、再び「中村軍曹にはお世話になった」と語り始めるのです。邪推をしたくはないのですが、日本人観光客を見かけたらそばに行き、語り始めることを繰り返しているようです。

ラバウルを訪れる日本人なら目的が観光かビジネスかを問わず、第二次大戦中の日本軍がパプア・ニューギニアを占領し、悲惨な軍事戦略を繰り返したことを知っています。その作戦で多くの現地の住民が死傷しています。現地の老人から日本語で話しかけられると、多くの人は「申し訳ない」と謝罪の気持ちが浮かびます。ほんと邪推はしたはないのですが、そこで何しからの形で老人にお詫びの気持ちを伝えたことがあったのかもしれません。もし、それがきっかけでこの老人が日本人観光客に話しかける習慣が始まったのなら、ラバウルの人々に対しさらに失礼で申し訳ないことをしてしまったと沈痛な思いを覚えたのでした。

翌日、自分自身こそ、50年前の戦争を忘れたかのような行動をする一人だと気づきます。学生の頃から歴史は大好きで、親に頼んで田宮模型のプラスチックモデルを買ってもらい、零戦、隼、紫電改など戦闘機、大和など戦艦、航空母艦と矢継ぎ早に組み立て、そして飾り付けて眺めていました。それだけにラバウルに来たなら、やはり当時の司令部や戦跡を見学したいと気持ちがはやります。ちなみにラバウルは1994年9月に近郊の火山、ダブルブル、ブルカンの2火山が同時に噴火し、街は大量の降灰に覆われました。その後、街の一部は復興しましたが、大半はそのまま。空港も移転したそうです。これから書くことは2火山噴火前の出来事です。

将校専用の食堂に配置された白いテーブルと椅子が目に焼き付く

元日本軍の司令部跡に着きます。予想に反して建屋は保存されていました。戦後ある程度改装したらしいですが、建屋内は大きく変わっていないと話します。ラバウルの司令部跡です。なんとなく高揚します。玄関に入り廊下を歩き、食堂や会議室など向かいます。貴賓室のような豪華な装飾が残る部屋がありました。将校専用に使われたようで、テーブルや椅子には真っ白なカバーがていねいにセットされていました。ここで山本五十六連合艦隊司令官が最後のフライトの前に食事をしたと聞いています。真っ白な空間が目に焼き付きます。山本司令官らを囲んで会議や食事をする姿を勝手に妄想し、「ラバウルに来たんだ」と実感します。

建屋を出ると、すぐ近くに白いコンクリート製の小さな小山がありました。防空壕だそうです。外見は綺麗ですが、崩壊する危険があるため、内部には入れてもらえませんでした。ラバウルは南太平洋の戦略基地でしたから、陸海軍の最新鋭の軍事力を集まっていました。地域全体が強固な要塞化していたため、米軍はラバウルを避けて他の地域を攻略した結果、ラバウルは大きな空襲に遭わずに終戦を迎えたそうです。といっても50年近い年月が過ぎた後も戦時中の施設が当時に近いまま残っているのには驚きました。詳しくは聞きませんでしたが、旧日本軍の関係者が保存に努力したのでしょうか。

ベトナムのクチトンネルを思い出す

洞窟にある戦闘艦

洞窟にある戦闘艦

旧司令部跡から海岸沿いに向かいます。洞窟がありました。旧日本軍が掘って小型の戦闘用船舶が収納されていました。米軍上陸を想定して掘られた地下トンネルもあったので潜り込みました。

真っ暗で狭いトンネル内を歩き回っていたら、1989年に訪れたベトナムのクチトンネルを思い出しました。ベトナムの首都ホーチミンから車で1時間ほど走ったクチには全長200キロという想像もできないトンネル網があります。南ベトナム解放民族戦線 が米軍の空襲を避けながら移動するゲリラ戦に使われました。当時は外国人観光客に公開しておりましたが、その時は私たち夫婦2人だけでした。きれいな女性がガイド役として登場し、トンネルがなぜ掘られたのか、米軍が展開した残虐な軍事作戦、特に枯葉剤を空からばらまく「枯れ葉作戦」の悲惨な結果をていねいに説明してくれました。枯れ葉作戦に使用した薬剤の影響でベトナムでは多くの障害を持った子が生まれ、死んでいます。標本として展示されている姿に涙が止まりませんでした。ガイドの女性は「トンネルはとても狭いけど、体験するか」とたずねます。「もちろん」と答え、トンネルの入り口に入ります。ベトナム人は小柄なのでトンネルの直径は小さく、日本人でもかなり辛い姿勢を取らないと進めません。出口を抜けてホッとしていたら、ガイドの女性が笑って出迎えてくれました。最初は緊張した面立ちだったので、笑顔が意外でした。「日本人の夫婦がクチトンネルを体験できる時代になったのがうれしい」と笑顔の理由を教えてもらいました。この続きは別の原稿で書きます。

ラバウルのトンネルに時空を戻します。クチトンネルと違い、真っ暗なトンネルは日本兵が掘ったものです。日本人の体型に合わせているので少しは前進しやすい。地下要塞としてゲリラ戦にも想定していたためか、少し立って歩けるぐらいの広さも確保されています。長期戦に備えて、南太平洋の戦略基地であることを再認識します。

ラバウル近郊のココポに戦争博物館があります。こちらは旧日本軍の戦闘機や当時の兵士の生活を彷彿させる品物が展示されています。なかでも見逃すことができないのが零戦です。撃墜されたものかどうかは不明ですが、戦闘機の骨格を残した戦跡が展示されています。私はここで思わず本当の声が出てしまいます。「おぉ〜零戦だ」。展示している零戦の戦跡に駆け寄り、操縦席に座ってしまいました。プラ模型を組み立てている時、最後に神経を使うのが戦闘機の操縦席です。ミニチュアのパイロットを座られる時に前面に計器や操縦桿がしっかりと使えるように神経を尖らせます。展示されている零戦は50年近い歳月を経過した戦闘機の骨格です。しかし、私にとっては、夢のような現実の戦闘機でした。操縦席に座って有頂天になり、そばにいた人に「すいません、写真を一枚お願いします」と頼みました。その人は「零戦で亡くなった人のことを思えば、私にはできない」と断られてしまいました。ようやく目が覚めました。「今のラバウルを視察に来たのではない。50年前のラバウル の栄光を感じたくて来たのだ」と。

50年前の「日本」に高揚、「NIHON」ではなく「ニホン」に

日本は前の戦争を終えて「新しい日本」を創造しようと努めて来ました。日本の過去の戦争をしっかりと見詰め、アジア、世界との関係をゼロから再構築する努力を積み重ねて来たと思います。しかし、戦後生まれの自分にとってラバウルは、50年以上も前の「日本」に対して反省・教訓よりも軍事大国として輝いていた当時の日本の一部にまだ目を奪われていたのです。「日本」から学び、国際化へ目を転じて「NIPPON」を目指すべきなのに、まだまだ「日本」と「NIHON」の中間である「ニホン」にしか思いが進んでいないことを思い知ったのです。

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