最高裁「国の責任認めず」、国と電力が作った「原発の安全神話」は誰の責任に

 2022年6月17日、最高裁は東京電力福島第1原発事故の避難者らが国と東電に損害賠償を求めた4件の集団訴訟の上告審判決について国の賠償責任を認めない判決を言い渡しました。最高裁が初めて下した判断によって「事故から11年、東電を規制していた国の法的責任の有無に事実上の決着がついた」とメディアは伝えますが、果たしてそうでしょうか。

 裁判長は「地震は長期評価に基づく揺れよりはるかに規模が大きく、国が規制権限を行使し、東電に安全対策を講じさせても事故を防ぐことができなかった可能性が高い」と指摘しています。判決は裁判官4人のうち3人が賛成し、反対した1人は「長期評価を前提に国や東電が真摯(しんし)な検討をしていれば、事故を回避できた可能性が高い」という意見でした。原告側は国が2002年に公表した地震予測による評価をもとにすれば巨大津波の襲来は予見できたと主張し、長期評価の予見可能性と信頼性が主な争点となっていました。

 判決では事故前の津波対策は「防潮堤などの設置が基本だった」と認識し、国が東電に対策を命じていれば、原告が主張する水密化対策ではなく、防潮堤設置が行われた可能性が高いと捉えながらも、東電が2008年に試算した津波と2011年の津波は規模も方角も異なり「原発敷地への浸水を防ぐことができず、原発事故と同様の事故が発生していた可能性が相当にあると言わざるを得ない」という結論を引き出しています。

原発は国と電力会社の二人三脚で推進

 最高裁の判断について討議する考えはありません。ただ、国と電力会社の関係を間近に見てきた経験からいえば、違和感があります。日本の原発建設は国主導で進められ、電力会社は国との二人三脚といっても間違いがないほど密接な連携を取ってきました。例えば電源3法をみてください。1973年、石油ショックをきっかけに火力以外の発電所建設を推進するために制定され、水力や地熱も対照ですが、当時の田中角栄首相は原発建設に活用します。数多くの原発が立地する福島、福井、新潟、佐賀の4県には100億円を超える交付金が支払われています。原発が立地する県や自治体の知事などの首長選はかならず原発が大きな争点になります。交付金は施設建設などにも使われ、地方政治は原発を巡って動いています。

 しかも、電力会社は地域経済の頂点に立ち、毎年巨額の投資を続けます。地域の利権に目ざとい政治家は電力会社の意図を汲み、動き回り、政府や地方に対する政治的な力が電力会社に集まります。あまりの政治力に対し、二人三脚で原発を推進してきた通産省(現経産省)などが電力会社の政治力を嫌がり、国と電力会社に暗い溝が生まれる皮肉な事実も。福島第一原発事故の後、電力産業を発電と送電を分離する案が急浮上した背景には、電力業界の政治力を奪い取りたい国や経産省の長年の思いに対する意趣返しがあります。

安全神話を守るために、常に完璧と説明

 国、地方政治、電力会社の密接な関係は、原発の安全に対する信頼性にも及びます。原発は数多くの防御策で完全に守られているという「安全神話」が当たり前のように語られます。完璧な安全神話に仕上げてしまった結果、本来なら修理や設計変更が必要になっても公言できない自縄自縛に。こちらは不都合な真実です。安全神話を守るため、原発に不具合や事故が発生した場合も「たいした事故ではない」という説明が広がり、原発建設地に活断層が見つかっても地震の可能性は低いとの調査結果が出てきます。

 今回の訴訟の対象になった津波の予見も、原発の安全神話を支える一例に過ぎません。将来の大津波に備えて防潮堤を建設するのか、あるいは建屋に水が浸入しない水密化が良いのかという議論は本来の安全神話に従えば、人知が及ばない自然の破壊力に敬意を表して対応可能な施策を実行するのが社会の常識です。最高裁は国に責任無しと判断しましたが、原発の歴史を振り返れば原発の安全性を守る国の責任に変わりはありません。

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