ほぼ実録・産業史18)「三菱自動車は売却する、プジョーは買うかな?」
2000年以降の三菱自動車の沿革を振り返ると、なんともいえない気持ちになります。正直、とっくに消えていても不思議ではない会社です。でも、今も存続しています。これが日本の製造業の強さと説明して良いのか、結局は経営革新できずに中途半端なまま存続する日本の製造業ならではの粘り腰というのか。今回は三菱自動車が数え切れない不祥事を重ねながら、自動車メーカーとしての外枠を残しながら、新たな「四菱自動車」へメタモルフォーゼ(転身)していく過程を描き出します。前回の連載16回と重なるエピソードがありますが、背景をわかりやすく説明するためにあえて再び加えています。お許しください。
2000年ごろから経営が崩壊し始める
三菱自動車は2000年ごろから経営が崩壊してもおかしくない不祥事を起こし続けました。1995年に中村裕一社長から引き継いだ塚原董久、木村雄宗の両社長はともにわずか一年間で交代する異常事態が続きます。1989年から6年間、社長の座を占めた中村裕一氏は在任中、RVの代名詞ともなった「パジェロ」を大ヒットさせ、業界2位の日産自動車の背中に手が届く寸前まで販売シェアを伸ばしました。社長から会長へ就任した後も、経営の実権を握り続けました。
社長がどんどん交代していく、経営責任の所在はどこに?
塚原、木村両社長の存在感は皆無でした。塚原氏は社長の期間中、社外にほとんど姿を見せずそのまま辞任。木村氏も中村会長の大きな影に隠れてしまい、歴代社長に名前を残しただけです。過去の経験から、三菱自動車の内部が壊れ始めていると直感します。予想通り、内部告発が相次ぎます。
社長が会長に退いても経営の実権を手放さず事実上の社長として振る舞うケースはあります。ほとんどは創業家出身の場合です。三菱自動車は三菱財閥の一角を占める上場会社です。会社の会長があたかも創業家出身者のように振る舞い、社長が会長の権勢から逃れることができない。この歪な経営は会社が袋小路に迷い込んでも、経営責任の所在がわからずその後に起こる不祥事を回避できない主因となります。不可思議な経営が続く中、腐敗で充満したガスが吹き始めます。1997年、総会屋への利益供与事件が判明し、中村会長は事件の責任を負い、退任しました。
三菱自動車は命運が尽きる崖に向かって歩き続けます。中村会長が退任した1997年、社長就任したのが河添克彦氏。その3年後、河添社長は2000年にリコール隠し事件の経営責任を取り、辞任に追い込まれます。2002年には山口県で発生した事故に関して業務上過失致死罪で逮捕されました。社長就任してからわずか3年で辞任し、その2年後に逮捕・起訴される。安全・安心を掲げ、生命を守るのが最大の経営ミッションである自動車メーカーとして、信じられない事件が続きました。
会社の盛衰は10年前から始まっている。これまでの取材経験から得た確信です。三菱自動車も例外ではありません。伏線は1990年代から描かれています。1996年に登場した直噴エンジンGDI。燃費や排ガスなどの大幅な改善・抑制を実現した環境にやさしいエンジンとして数々の表彰を獲得。三菱自動車の快進撃を支える原動力になりましたが、「張子の虎」であることが徐々に明らかになってきます。実際の燃費はさほど改善されていないうえ、エンジンから排出するカーボンは多くエンジン系統の故障が相次ぎます。最大のウリだった窒素酸化物など有害なガスの抑制はNOX法にも対応できない致命的な欠陥が判明します。GDIが象徴する技術の不正は過去の自動車開発の積み重ねの結果です。一例に過ぎません。
三菱の命運を決定的にしたリコール隠し事件を簡単に振り返ります。2000年の初夏、1977年からの23年間、主力乗用車、トラックで約69万台のリコール案件を隠蔽していることが明らかになりました。当時の運輸省へ寄せられた三菱自動車の社員からの内部告発がきっかけです。2004年には74万台のリコール隠しも明らかになりました。三菱のピカピカに磨かれたブランドがパリパリと音を立てて割れ、剥がれていく姿が目に浮かぶはずです。日産自動車を追い、そして追い抜くために開発や生産で無理を重ね、つまさきで立ち続けたツケが噴出し続けます。
ダイムラーとの資本提携、そして解消 トラック・バス部門を失う
時間軸が前後しますが、2000年に三菱自動車は背伸びした経営のひび割れを覆い隠すように当時のダイムラー・クライスラーと乗用車部門について資本提携します。ダイムラー・クライスラーのトップは豪腕で知られたユーゲン・シュレンプ社長です。冷静沈着な経営者とはほど遠く、パーティーでの乱痴気騒ぎなどの噂が伝わる人物でした。三菱自動車に34%を出資し、経営に大きく関与します。両社の販売台数は世界第3位の規模となります。三菱重工業などはドイツの高い技術力とブランドを評価しており、かねてダイムラーと三菱の相性は良いはずと考えていました。高品質のクルマとして富裕層などに顧客を持つダイムラー・ベンツの力を借りて、地に落ちた三菱ブランドの浮揚を期待しました。一方、ダイムラークライスラーは提携のメリットとして手薄なアジア地域をテコ入れするため、スリーダイヤモンドブランドに多くのファンを持つ三菱自動車を利用できると説明しましたが、本音は「ふそう」ブランドで高い評価を集める三菱自動車のトラック・バス部門を手に入れるチャンスととらえました。
三菱自動車はリコール隠し事件のあおりで業績が悪化します。リーダーシップを失った経営陣は効果的な打開策を打ち出せません。河添社長の後継である園部孝社長も2年間で退き、2002年に後継としてダイムラー出身のロフル・エクロート氏が社長に就任します。経営基盤の強化を議論する中で、2003年にトラック・バス部門は分社化され、ダイムラー・クライスラーの支配下に移行していきます。
2004年に再びトラック・バス部門のリコール隠しが発覚します。三菱自動車の業績は急降下し、倒産の文字が目の前にちらつき始めました。なんとか存続するため、工場の閉鎖や人員削減など抜本的なリストラを実行する中、筆頭株主の座にあったダイムラー・クライスラーは資本提携を解消すると発表しました。シュレンプ社長にとって、資本提携を通じて取り込みを図ったトラック・バス部門はすでに手中にあります。三菱自動車の経営再建に努めても、ダイムラー・クライスラーの世界戦略を支える存在ではないと割り切っていました。資本提携解消に躊躇する理由はありませんでした。「トラック・バス事業は安く手に入った」と笑っていたかもしれません。
三菱自動車の目の前には経営破綻が待っていました。三菱財閥はなんとか救済しようとします。三菱の名前を冠した会社が倒産してはいけないのです。三菱重工、三菱商事、三菱東京UFJ銀行などが中心になって救済策を決めて、なんとか危機を乗り切ります。三菱自動車は三菱重工の持分適用会社として傘下に入り、経営不安を払拭します。親離れをめざして新車開発、販売を拡充してきた三菱自動車は、結局は元の親の下に戻って存続することになります。歴史の皮肉です。
2005年1月、三菱自動車の新体制が固まります。社長に三菱商事出身の益子修氏が、会長には三菱自動車の命運を握る三菱重工のドン、西岡喬会長がそれぞれ就任することになりました。益子氏は社長になる考えはありませんでしたが、自動車生え抜きに適当な人材がもう見当たらないのが実情でした。不承不承で引き受け長く居座るつもりはなかったのですが結局、日産自動車との提携以降も三菱自動車の経営を引っ張る重責を担います。
「自動車会社は経営できない。プジョーに売り払う」
三菱自動車は再び社長に経営の決定権が事実上与えられない歴史を繰り返します。命運は三菱重工の西岡会長が握ります。西岡会長の胸の内は固まっていました。「消費者から縁遠い事業を展開する三菱重工に自動車会社は経営できない。どこかに売り払う。フランスのプジョーにまず打診してみよう」。
三菱自動車のメタモルフォーゼが始まりました。自動車メーカーとして存続することよりも、経営破綻しないことが至上命題です。自動車メーカーとしてのミッションが見当たりません。三菱自動車は幽体分離してしまったかのようです。ナビゲーションを持たないまま、エンジンは始動しました。しかし、前進しているのか、後進しているのか、それともアイドリングしているのか。誰も自信がありませんでした。