ほぼ実録・産業史20)三菱自動車の崩壊が始まる 革新できず取り残される日本の製造業の実相
前回は2005年1月に三菱自動車の新体制が固まったところで終わっています。ちょっとしつこいですが、もう一度2004年の1年間を振り返りたいと思います。それは三菱自動車が崩壊する経過を確認することで、日本の製造業が中途半端であるにせよ生き存えることができた産業史だからです。そこには日本の製造業が革新できず世界から取り残されてしまった原因を考えるヒントがあるはずです。
2004年は日本の製造業の実相があらわに
3月に2000年のリコール隠しを上回る規模のリコール隠しが発覚し、再び窮状に追い込まれます。相次ぐ一連の不正事件の結果は当然ながら新車販売に大打撃を与えます。誰も三菱自動車の経営に不安を覚えます。そして翌月の4月、なんとか経営の後ろ盾として頼りにしていたドイツのダイムラー・クライスラーが突然、経営支援打ち切りを決定し、経営は宙ぶらりんに。ダイムラーのシュレンプ社長はドイツ合理主義を体現した経営トップです。提携先として三菱自動車の賞味期限が切れたと判断したら、決断と実行に躊躇はしません。これから2年間ほどなにも決断できずに経営不安の道に迷い込む三菱自動車とは全く対照的です。シュレンプ個人の経営手腕を高く評価する考えはありませんが、この速い決断と実行力を持つ人材だけが経営トップに立つ欧州の自動車メーカーだからこそ現在の電気自動車への素早いギアシフトが可能になったのだと改めて痛感する昨今です。
時間軸を2004年に戻します。ダイムラーの支援が切られて呆然としたまま、三菱自動車の経営破綻が現実化してきます。三菱重工業、三菱商事、東京三菱UFJ銀行の三菱グループ3社が中心にグループを挙げて経営支援する方針を明らかにします。4月、ダイムラーから送り込まれていたロルフ・エクロート社長はダイムラーの提携打ち切りに合わせて退任。三菱自動車出身の橋本圭一郎氏が短期間社長代行を務めた後、岡崎洋一郎氏が社長に就任しますが、2ヶ月後の6月に会長となり、代わりに多賀谷秀保氏が社長に。社長の椅子の重みなど飛んでしまったかのように目まぐるしく、そして軽く顔ぶれが変わります。「社長は誰でも良いのか?」とといった批判の声よりも「社内に社長にふさわしい人材はいるのか?」といった不安が広がるほどです。とにかく頭には帽子を被せなきゃという具合でした。