実録・産業史 自動車編 11)終焉を迎える創業家による経営 トヨタは豊田家か

1992年 豊田達郎さんがトヨタ自動車社長に就任しました。創業者の喜一郎さんの次男、前任社長の章一郎さんの弟です。東大工学部を卒業後、1953年にトヨタ自動車販売に入社。1984年にはトヨタとGMの合弁事業の準備室長に就き、合弁会社の社長を経験しています。専務、副社長を経ての社長の椅子に座りました。家系、経歴は申し分ありません。当然の社長就任です。

社長は全能ではない。衆知を集める能力が問われる

しかし、社長就任が固まったとの情報を聞いた時は疑問符のマークが浮かびました。ひょっとしたら1990年代に入って経営の足元がフラフラし始めた日産自動車よりも、トヨタが先につまづくかも。直感です。取材力が他の記者よりも優れているという過信は全くありません。取材した人物数の多さだけは負けないと思いますが。頭が悪いのでたくさんの人を取材しないと記事を書けないからです。その数だけ多い取材経験からみて、豊田達郎さんは突出して手強い人物でした。「絶対に本音を見せないぞ」という強いオーラを体中から感じたからです。何の材料を持たないで「なんかニュースありませんか」と質問するご用聞きのような記者と思われたかもしれません。自分の不徳・不明を大前提にしてもガードがとても固かった。心を通じる糸口が見えませんでした。

会社を背負う経営者の責任は余人には理解できないほど重いものです。従業員、その家族、グループ会社、取引先など及ぶ範囲は広い。ましてトヨタ自動車となれば、私が想像できない重責が待ち構えています。「新聞記者ごときに何を言うのか」と思われても仕方がありませんが、唯一言いたいのは経営者、社長は全能ではありません。数学の命題に例えれば必要条件として衆知を集めて最善の経営判断をする能力が不可欠です。

豊田達郎さんの兄である章一郎さんは「おとぼけの章ちゃん」といわれていました。いわゆる空気を読まない発言が時々、ありました。しかし、愛されキャラなんでしょうか。私も経験があります。1980年代後半、造船会社が韓国など新興国の追い上げに遭い経営が窮地に追い込まれていました。造船会社のニュースは人員の削減を軸にした経営合理化ばかりでした。造船担当の記者は自分が執筆するニュースが「人切りばかりだ」と心を痛めていたほどです。ところが、当時の豊田章一郎社長が「トヨタの決算が良いというけれど、最近は造船会社も景気が良いそうじゃないか」と語りかけられたことがあります。さすがにその場で全否定できないと思って慌ててしまい、「いや、そうでもない。いやあ、そうですか?」と訳のわからない受け答えをした覚えがあります。

章一郎社長の経営は、独断専行というよりも秀でる人材を活用するのが上手という表現になるのかもしれません。もちろん、秀でいていると評価する基準には好き嫌いが入りますが、それはどんな経営者、人間なら当然あります。自分の経営者としての力量を承知のうえで信頼できる人材に任せる。いわゆる帝王学を体得していたのでしょう。経団連会長に選任された時もそうでした。平岩外四会長は後継を託す決断をした盛田昭夫さんが急死した後、後任人事に悩みました。最終的に後任会長として豊田章一郎さんを選んだ理由が「人の意見を聞き、より良い決断ができる」でした。この才能があったからこそ、「トヨタと同じ名前を冠していながら異なる会社」といわれた自販・自工の合併後、初代トヨタ自動車社長として自工・自販の人材を衝突させず結集に導き、最強トヨタの道筋をつけることができたのです。

豊田達郎さんは完璧過ぎたのでしょう。東大工学部を卒業していながら自販に入社。そしてトヨタの未来、そして世界の産業史に残る提携であるトヨタ・GMの合弁会社に社長に就任しています。背負った重責は計り知れません。そこへトヨタ社長の椅子が加わります。完璧にこなすことを求められる経験を繰り返し、心を許す時間を失っていたのかもしれません。

創業家に進言する側近がいない

そこに思いもかけぬ大逆風が吹き始めます。1980年代、バブル経済に突入する10年間の高度成長期を経験した章一郎時代と打って変わって、豊田達郎社長の就任後はバブル経済の崩壊が始まり、円高の進行という大逆風に襲われます。予想もしない厳しい経営環境が待ち構えていました。利益を捻出すためにも原価低減を積極的に進めます。万人に喜ばれる施策ではありません。完璧を求めるあまり、細かい指示を繰り返します。自身の経営をしっかりと現場に伝えたいとの思いで経営陣の多くを側近と呼ばれる人材で固めます。知らぬうちに豊田達郎社長はその頭文字から「TT」と呼ばれ、陰口が飛び交います。「おとぼけの章ちゃん」と呼ばれた時期とは真逆の空気がトヨタ社内を支配します。

あれだけ強かったトヨタの求心力は遠心力が上回り始めます。「社長がパーティーの席順表の入れ替えなど重箱の隅を突っつくようなことまで指示している」「合弁事業の認可を得るために日本国内でしか販売しない高級車を密かに輸出した」など過去のトヨタならあり得ない様々な揣摩憶測(しまおくそく)が飛び交い始めました。「トヨタ社内が荒れてきた」のがはっきりと見えてきたのです。それは日産が足元にも及ばなかったトヨタの強さが坂道を転がり落ちるように衰弱し始める兆しでした。「今度は社内でこんなことがあった」と話すトヨタの人間から黒い塊のような吐息が出てくるのが聞こえるようでした。

100年に一度の変革期に危うさが姿を現す。

しかも、創業家に物申す人物はもう見当たりません。耳の痛いことを進言する役員らは遠心力で飛ばされ、そばにはいません。業績面で大きな傷痕は表れませんが、トヨタ自動車の経営は巡航速度と航跡を外れ始めていました。95年、豊田達郎社長は高血圧症で体調を崩し、社長の座を奥田碩氏に譲り副会長に就きます。

この3年間は創業家による経営の危うさが姿を現した時でした。3年間で終わらずに10年間の年月を重ねていたら世界の自動車産業の構図はひゅっとしたら今とは全く違うものなっていたかもしれません。日産自動車はルノーと提携してカルロス・ゴーンさんが君臨することもなかったかもしれません。トヨタがベンツかGMと資本提携して電気自動車の開発を急いでいる姿を見たかもしれません。急遽就任した奥田碩社長は再び最強トヨタの軌道を取り戻し、「世界最強」へ爆進します。奥田碩は自動車産業の競争の構図を変えるゲームチェンジャーでした。そして創業家による経営がこれまで築き上げた強さを簡単に崩壊させる危うさも、私たちは目撃したのです。

創業家による経営は再び試練を受けます。電気自動車(EV)の到来、「100年に一度の変革期」が自動車ゲームのラスボスとして待っていました。

2009年、奥田碩、張富士夫、渡辺捷昭の創業家以外の社長3代が続いた後、創業家の章一郎氏の長男、豊田章男社長が誕生します。豊田達郎社長が退任してから14年ぶりの創業家出身者として。

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