三菱自動車のミラージュ

ほぼ実録・産業史)三菱と四菱のはざま 「時代を創り、次代を壊す」 連載16

テリー伊藤さんも絶賛の名車ミラージュ

テレビの世界でタレント・演出家として活躍しているテリー伊藤さんが三菱自動車の「ミラージュ」を取り上げて評価しているネット動画を視聴しました。テリー伊藤さんは若い時からクルマが大好きで、国内車、輸入車を問わず50台以上もクルマを乗り回しているそうです。「今では絶対に見ない車」とテリー伊藤さんが三菱自動車「ミラージュ」を紹介していますが、この動画に対するコメントがふるっていました。「三菱は名車も作るけど、迷車も作るから面白い会社」。まさに的を射ており、私も「うん、うん」と唸ってしまいました。

動画に登場する「ミラージュ」は昭和57年(1982年)の1600GTです。もう40年も前の車です。様々な装備を後付けするなど凝りに凝ったカスタムカーに近い仕様に改造されているようです。当時の三菱ファンは「走り」が大好きな人が多く、三菱もファンの夢に応えるかのように日本の道路事情にはオーバースペックと思えるモデルを相次いで発表しました。走行性能は申し分ありません。世界の荒地を走り抜けるラリーなどに積極的に参加し、数多くの勝利を収めているのですから。その極限のモデルが「ランサー・エボリューション」、愛称「ランエボ」でしょうか。

「パジェロ」も大人気でした。現在のSUVブームの先駆ともいえるモデルです。この車でパリ・ダカール・ラリーに参加し総合優勝を収めた有名なドライバー、篠塚建次郎さんにもお会いした思い出もあります。私は90年代のオーストラリア駐在時、「パジェロ」を購入し、走り回りました。灼熱の砂漠に覆われる広大なオーストラリアの道路事情からみれば、パジェロの性能では乗用車扱いでした(笑)。テリー伊藤さんが動画で紹介したミラージュはかなりの中古車ですが、価格は新車当時よりも高いそうです。テリー伊藤さんは「このころの三菱は全身シャープなんだよね」と改めて楽しそうに懐かしんでいました。

「ミラージュ」は疑いもなく名車です。派手なアピールポイントは見当たりません。小型車でありながら、しっかりした走行性能を備えて使い勝手は良く、価格も高くはない。エンジン排気量1000CC以上の小型車で比較すれば、抜群のコストパフォーマンスを見せつけました。日本国内でも評価を集めましたが、それよりも東南アジアの高い人気ははるかにしのぎ、「スリーダイヤモンド」に対するブランド評価を押し上げたクルマです。1990年代以降、三菱自動車は燃費データの不正事件や相次ぐリコール隠しなどで日本国内の評価はガタ落ちとなりました。悪化する経営を支えたのは東南アジアで盤石だった「スリーダイヤモンド」のブランドの力でした。「ミラージュ」は経営危機を何度も経験する三菱自動車を支えたのでした。

三菱グループのなかでの二流から一流へ

 しかし、三菱自動車は「ミラージュ」のヒットだけで満足できませんでした。背負っているブランドは三菱です。それなりの成功では、いつまでも三菱グループに支えられている二流の会社に過ぎないからです。1990年代以降、経営不祥事やリコールなどで経営の屋台骨がガタガタになったのも、「親会社の三菱重工を抜いて一流の仲間入りする」という思いから無理に爪先立ちした結果から生まれたのでした。

 わかりやすい例は、1996年に登場した「環境エンジンのGDI」です。三菱グループで認められるためには、主力の乗用車市場でトヨタ自動車や日産自動車に負けないクルマを投入し、三菱グループ以外の企業や消費者が買う車をヒットさせる必要がありました。ですからGDIのキャッチフレーズはかなり刺激的です。「燃費は35%減、パワーは10%増、CO2の排出量は35%減」。すごいですよね。当時としては画期的な直噴エンジンを採用し、このパフォーマンスです。燃料のガソリンをシリンダーに高圧で直接噴射することで、燃費効率と出力向上の両立を実現しました。主力車の「ギャラン」と「レグナム」に搭載しました。狙いは的中。「低燃費で高出力を兼ね備えた地球環境にやさしい車」として海外から高く評価され、スウエーデン・ボルボや韓国・現代自動車などにも技術供与されています。GDIはすぐに三菱の高い技術力をアピールするキーワードになりました。

GDIの蹉跌

 しかし、画龍点睛を欠くとはこのことか、です。高出力と低燃費を両立できて環境にやさしいと高らかに謳っていたにもかかわらず、実際の燃費はさほど向上しておらず、排ガスに含まれる窒素酸化物や粒子状物質、カーボンなども法規制に対応できてないことが判明しました。看板に偽りあり、でした。

 2000年以降にはリコール隠しが相次いで起こります。リコールを隠したまま、不具合を修理した後に「GDI倶楽部」のステッカーを貼っていたそうです。リコールは国土交通省に届ける事案です。それを報告せずに修理してGDI倶楽部の名前でリコールを隠蔽していたのですから、GDIは性能面にとどまらず、三菱のブランドそのものに信頼失墜の烙印に変わってしまいました。そして2007年にGDIは終焉を迎えます。三菱の不祥事を振り返ると、1996年以降、米国でのセクハラ事件、総会屋への利益供与、相次ぐリコール隠し、燃費試験の不正などが続きます。途中、社長の引責辞任もありましたが、池井戸潤の「空飛ぶタイヤ」のモデルとして小説、映画で広く知られています。それでも会社が存続したのですから、経営を下支えした三菱グループの底力の凄さに改めて驚きます。

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再び「ほぼ実録産業史」へ

 1996年、四菱自動車の有村陽一社長は会長へ就任します。89年から7年間、新型直噴エンジンの開発、ポジェロなどヒットを飛びし続け、遥か遠くに見えた日進自動車やオンダに追いつき、追い抜く地位にまで四菱を押し上げた功労者。二流の四菱自動車を一流に引き上げ、日本の自動車市場で直噴エンジン、SUVなど新しい自動車の時代を創造したのは間違いありません。

相次ぐヒットで新しい時代を切り開きながら、ユーザーからの信頼を失う

 そんな有村氏が会長職として一歩退く地位になったとはいえ、四菱最大の実力者であることに何も変わりはなかったのです。後継社長に就任した塚本洋氏、塚本氏の後継である林宗徳氏、その後継である河合義彦氏。それぞれ社長としての名刺を持つものの、有村さんの意向に逆えるわけはなく、社内外では「社長は有村の操り人形」と見る向きが多かったのです。

 有村社長が交代した1996年以降、不正、不祥事が相次ぎました。不正・不祥事の芽は有村時代です。しかし、本人は微塵も自身の経営に疑いを持ちません。後継を託した社長らがその処理に取り組み、責任を負うのが当たり前と信じ込んでいました。

 結果論かもしれません。四菱自動車は1990年代、日本の自動車市場に新しい需要と可能性を生み出した時代を創造しました。しかし、四菱自動車は自ら次の時代への跳躍台を築きながら、その過程で自動車メーカーとして許されない自動車への信頼をユーザーから失い、自らの次代を失う経営の道に迷い込んでしまいました。それが2000年代のドイツ自動車、ルソー自動車などと繰り広げた提携という名のドタバタ劇への開幕につながったのです。

独仏自動車とのドタバタ提携劇へ突入

 三菱自動車は「ミラージュ」など今でも名車として評価されるモデルを生み出しました。四菱自動車は1990年代後半に経験した一瞬の栄光がミラージュ(蜃気楼)として終わり、自動車メーカーとして存続することに懸命です。三菱と四菱のはざまには何があるのでしょうか。三菱になれなかった四菱のオマージュが沈殿しているような気がします。ただ、その沈殿物は多くの企業が経験、あるいはこれから経験するかもしれない危険物であるのです。

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