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残念な会社 パナソニック 市場創造できない! 背負った看板の重さが挑戦を阻む (その2)

 パナソニックはあらゆる製品を生産しています。決して過言とは思いません。

昭和の高度経済成長期、盛んな消費をばねにテレビ、洗濯機、冷蔵庫、エアコンなどあらゆる白物家電製品を販売し、いずれも高い市場シェアを握ります。今も製品の顔ぶれはほぼ同じです。まだ続きます。車載用を含めた電池、電球、LEDなど照明器具、ホームエレベーターなど住宅設備、自転車、レッツノートで高い評価を集めるパソコン、などなど。とりわけ世界のノートパソコン市場を創造した日本メーカーの多くが猛烈な価格競争に懲りて手を引いたなかで、生き残っているのは見事です。

なんでも手掛ける唯一の総合家電メーカーだが・・・

 ホームページの商品一覧をみると、カテゴリーだけで11分野も。消費財以外でもソニーの独壇場だった放送用などプロ向け映像機器では当初こそ割安感で売り込んでいましたが、現在は優れた技術力で選ばれるようになっています。航空機の電子分野のアビオニクスではシェアは8割あるそうです。高度な技術が求められる業務用市場でもパナソニックのブランドは存在感は強めています。

 今では東芝、日立製作所、三菱電機の総合電機ご三家が事実上、家電製品から撤収し、長年のライバルだったソニーとまともに競合する市場は減りました。パナソニックは名実ともに日本で唯一の総合家電メーカーです。

 これだけ多岐に渡る事業を傘下に収めることができたのは「事業部制」にあります。時計の針を戻します。創業は1917年6月。松下幸之助さんが電球用ソケットの生産・販売を始めました。松下神話の始まりです。妻のむめのさんの弟である井植歳男さんも加わり、”松下商店”が立ち上がりました。1918年に松下電気器具製作所を創立して商店から会社組織へ脱皮します。ちなみに井植さんは戦後の1946年、GHQの公職追放令を受けて松下から独立。翌年に三洋電機を創業します。そして65年後の2011年、経営危機に直面した三洋電機は再びパナソニックの下へ戻っています。

事業部制とグループ会社の競争が行き過ぎへ

 事業部制は創業から15年後の1933年に導入されました。事業部制とはそれぞれの現場に開発から生産、営業までの権限を移譲して、独立採算を基本に事業拡大をめざします。1920年代に米国の自動車メーカーのゼネラル・モーターズなどが導入して成功を収めます。それから間もない1930年代初めに松下幸之助さんは導入を決意しました。ご本人が経営全般を見渡す体力に自信がなかったからなどさまざまな憶測がありますが、結果は日本一の家電メーカーの地位です。その慧眼はさすがです。事業部の数は一時期100を超えたそうですから、驚きです。

パナソニックは事業部制に加え、グループ子会社も元気でした。本体とグループ会社という味方同士の競争も激しさが増します。松下電器時代は地域に密着した販売網が他社を圧倒しており、それがさらにグループ内の競争に拍車をかけます。事業部制は互いに切磋琢磨して新製品を開発して、販売、シェアを拡大するのが本来の狙いですが、行き過ぎた競争は互いの足を引っ張り合い、経営の屋台骨すら揺らす組織へと変質してしまいました。

 2001年、当時の中村邦夫社長は規模拡大の原動力と思われた事業部制はむしろ弊害を生んでいると判断し、廃止を決定します。しかし、中村邦夫、大坪文雄の社長時代に投じた液晶・プラズマディスプレーは失敗。業績は奈落の底に向かってダウンし、赤字の総額は2兆円超える悲惨な状況に追い込まれたのでした。

事業部制は一度は廃止、でも復活

 事業部制廃止から12年後の2013年、津賀一宏社長は事業部制の復活を決断します。背景には中村・大坪時代の教訓を生かすためにも、過去を清算して社風を一新する狙いもあったはずです。しかし、事業部制を復活しただけなら、過去の成功体験への郷愁と思われてもしかたがありません。その先の改革が大事でした。というのは創業者の松下幸之助が「経営の神様」として偉大すぎるゆえに結局は「松下電器」に戻ってしまうからです。過去の呪縛から逃れることができないパナソニックを変革できるのか。津賀社長に自信はあったのでしょうか。

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