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スズキとダイハツ統合 EVで王手 環境技術の壁、トヨタとの確執を乗り越えて

 小野さんを失った時に腹が固まったと思います。「スズキの将来を託すのは、最後はトヨタ」だと。鈴木修さんが2021年6月に相談役に退くまで社長人事も含めて様々なことがありましたが、詳しくは後日に書きたいと思います。

ここからは鈴木修さんの胸中を推察します。

 未来のスズキに必要な環境技術の開発力のハンディキャップを跳ね返そうとしたものの、小野さんを失い開発陣をまとめ上げるベクトルは揺らぎます。経産省から世界戦略と技術開発の人材を補強していきますが、2008年にはリーマンショックが起こり、自動車メーカーは世界の需要が消滅する危機に直面します。北米戦略や技術開発などで深い信頼関係を築いていた資本提携先の米GMは経営危機に追い込まれ、2008年11月に提携を解消せざるをえませんでした。

 2009年6月には米GMが倒産。わずか半年後の12月にGMに代わるパートナーとして独VWとの資本提携を発表しました。鈴木修会長兼社長(当時)は「次の30年の道筋が見えた」とVWとの提携を考えたとの見方もありますが、私には「VWはあくまでもリーマンショック後の需要回復や新技術開発への時間稼ぎの相手」と見切っていたと感じていました。

 GM、インド、ハンガリーなど海外の手強い相手と交渉しながら、スズキの地歩を着実に固めてきた鈴木修さんです。VWとは軽も含めた小型車市場で新興国で今後も競合することは承知しており、お互いの弱い部分を補強し合う提携関係はもともと難しいことは十分に体感しています。しかし、スズキには再び世界の自動車市場で生き残るための体制を建て直す時間稼ぎが必要でした。

トヨタの奥田碩社長との相克

 時間稼ぎを迫られる理由はもう一つ。トヨタの奥田碩社長です。最後の頼みと想定したトヨタ自動車は1995年、豊田達郎氏の病気により急遽、奥田碩社長が就任しました。トヨタ社長は豊田英二、豊田章一郎、豊田達郎と創業家出身が三代続きましたが、中川不器男氏以来28年ぶりに創業家以外の社長です。

 世界の自動車業界で「トヨタの奥田」としてその豪腕ぶりを知らぬ人はいません。「奥田がトヨタの社長になったら世界一のメーカーになるが、豊田家は社長の座を手放さない」とみられてました。本人も想定外と受け止めた奥田氏が社長になったのです。北米を軸にした攻めの海外戦略を展開する一方で、国内ではダイハツや日野自動車の子会社化を進め、トヨタグループを世界のトップに躍り出る舞台を築きました。

 競争したら勝つが当たり前と考える人です。国内シェアの伸び悩みに直面していたトヨタは国内で伸びる軽市場を取り込もうとします。小型車「ヴィッツ」とダイハツの軽自動車で“スズキを板挟みに追い込み、シェア争奪に走ります。奥田社長は軽の優遇税制の廃止にも手をかけます。1998年には経団連会長に就任。1999年張富士夫社長に以降した後も強いリーダーシップを発揮 し続け「平成15年度(2003年度)税制改正で、軽自動車と登録車の税制の違いも問題になる」と発言し、平成15年度税制改正に向けて軽自動車の優遇税制の撤廃に意欲を示していた。

 鈴木修会長兼社長は経産省、運輸省などの霞ヶ関、政治家に深いネットワークを張り巡らしています。軽の優遇税制継続が決まるまで霞ヶ関や永田町で鈴木修さんの姿をよく見かけたものでした。

転機は豊田章男社長の誕生

 2009年6月、豊田章男社長が誕生します。父親の豊田章一郎名誉会長が「自分の目の黒いあいだに章男を社長にしてくれ」と当時の奥田相談役、張会長、渡辺捷昭社長に何度もねじ込んでいました。リーマンショック後の経営不振を理由に渡辺社長を辞任に追い込み、豊田章男社長への交代、創業家への大政奉還を実現しました。

 奥田氏らは章男氏の経営者としての力量に疑問を持っていただけに、豊田章男社長はこれまでの思いが噴出するかのように経営戦略、人事などすべてについて奥田路線の否定に走ります。ゴルフで例えればアゲンストの強い風に直面していたスズキにとって逆風が凪いだ瞬間でした。鈴木修さんが持ち駒として温めていたダイハツがようやく隠し手として生きようとしています。

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