MAZDA3 昭和から始まったトヨタとの提携への道 「広島の工場は残す」

トヨタは「広島の工場は残すから」と通産省に伝える

 なぜ稀有壮大な計画が生まれたのでしょうか。古田社長も不思議だったのではないでしょうか。本気で実現できると考えていた人は何人いたのでしょうか。通産省は古田社長に対し困った時はトヨタに駆け込むしかないと囁いていたはずです。いくつかの頭の体操の中で「広島の工場が閉鎖されるのは困る」が最後の結論でした。。水面下でトヨタもあうんの呼吸で通産省に伝えていました。「広島の工場は残すから」。

 マツダは西日本の経済、産業を支える中核企業です。もしものことがあったら、中国地方にとどまらず地域経済に大きな打撃が広がります。通産省にとってマツダは三菱自動車やダイハツ工業とは違う重みがありました。広島、山口などから有力な政治家が輩出しています。競争の原理の結果としてマツダが地図から消えることはありえないことでした。

 マツダの社員はなんとか自力再建の道を探りたい思いを捨てるわけにはいきません。住友銀行の管理下にあっても、マツダ社内の空気は「だれが自動車を開発して生産するのか?」という空気に変化はありません。なんとか自立できる道筋を描きたいとの思いを反映した拡大路線は残念ながら裏目に出てしまいます。1991年に和田副社長は社長に昇格、住銀主導の経営再建が鮮明になりますが、マツダの経営は下り坂であるにもかかわらずブレーキが効きません。販売台数は激減、赤字決算が続きます。住銀がもう手に負えないと覚悟を決め、次の手、つまりフォードに助けを求めるのが目に見えていました。

決算発表時に天井の照明カバーがテーブルに落下

 今でも覚えているシーンがあります。和田さんが副社長か社長か時期に自信がないのですが、決算発表の時でした。経団連の会議室で和田さんが決算の説明を始めようとした瞬間、天井から大きな照明カバーがそのまま真下のテーブルに落下してきたのです。幸い誰も怪我はなく、ホコリが会議室に舞っただけでした。しかし、決算内容が内容だけに誰も笑い飛ばす空気にはなりません。和田さんはニコリもしません。これから説明する内容の深刻さを象徴するハプニングだったとしか思えません。

 その出来事はまさにマツダの将来を暗示していました。住友銀行はフォード傘下による経営再建を決めます。1996年4月、マツダはフォードからの資本比率を33・4%にまで引き上げることを発表しました。フォード出身のヘンリー・ウォレス副社長は日本の自動車メーカーで初めての外国人社長に就任します。

 フォード主導の経営再建はマツダの強さを蘇らせ、現在のマツダの事業基盤を再構築させたと思います。しかし、新たな呪縛から逃れる過程で培われた思いがけない成果だったと今でも思います。

 次回に続きます。

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