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ほぼ実録・産業史 自動車編 ⑧ 富士自動車 日進の呪縛を逃れてAMWになりたい!

「うちはドイツのAMWのような自動車メーカーになりたい」

富士自動車の木崎進副社長の口癖だった。1980年半ばに取材で知り合ってから定期的に会って雑談したりお酒を飲んだりする仲になっていた。今日は1996年10月だから、もう10年ほどの付き合いになる。実は会うたびに口にするもうひとつのセリフがあった。「早く日進自動車グループから抜け出したい。提携関係は利害をともに乗り越えて、というけれど、うちにとって利はなく害だけ残っている」と苦笑する。心の底から日進との関係を断ち切りたいという思いをぶつけてくる。

富士自動車は第二次世界大戦前までは戦闘機の名機を輩出した航空機メーカーが母体だ。終戦後は航空機をもう生産できないので、これまでの技術を使って混乱期を切る抜けるために鍋釜からなんでも作った。軍事産業に絡む企業がどこも経験した試練だが、過去の技術を未来に活かすかどうかが企業として存続できるかできないかの分かれ道だった。富士自動車は元航空機メーカーの誇りに縛られず倉庫に残っていた爆撃機のタイヤを使ってスクーターを開発してヒットを飛ばした。続いてモノコックの発想から生まれた自動車などの生産を始め、なんとか優秀な従業員と戦中は日本一と称されたエンジン技術を維持してきた。

航空機エンジンから継承された技術のこだわりがドイツのポルシェと並ぶ評価を獲得する水平他エンジンを生み出した。クルマの重心を低く設定できる水平対向エンジンの特性を活かした四輪駆動システム(4WD)でも独自の地位を確立。欧州の山岳路などを走り回るラリーで大活躍し、「FUJI」ブランドは悪路でも世界最強の走りを実現するとの評価を定めた。織田自動車や日進自動車に比べて規模は小さいが、ポルシェは高価で買えないが、富士ならポルシェに近い走りを楽しめるという具合に根強いファン層の開拓に成功。海外では人気のラリー車を土台に普通乗用車を開発したモデルは「カルトカー」と呼ばれている。防衛関連や米ボーイングなど向け航空機事業を再度立ち上げたこともあり、独自の技術力を熱狂的に支持するファンとして「フジリスト」が存在しているほど。

だからクルマとして万人受けはしない。しかし、他の車にはない水平対向エンジンと4WDで富士自動車ならではの走破力を体感できる。「FUJI」ブランドは欧米やオーストラリアなどクルマの走りで選別する客が多い市場では日本よりも高い。ディーラーでの値引き率も他の日本車に比べて低くても売れてしまう人気がある。「高級ブランドの力で富裕層など有料顧客を抱えるドイツ車、なかでも乗用車主体の車種構成が似ているAMWが描く道筋が富士自動車にとって一番ふさわしい」と木崎副社長の目には映っていたのだ。だがAMWの跡を歩もうにも、提携先の日進自動車が口出しばかりして独自路線を選べない悲哀を味わっていた。

木崎副社長のいつもの口癖を今回は本気だと感じ取った。1996年秋、日進自動車の経営が右に左に揺れ始め、日進系列の部品メーカーなどグループ企業も先行きが見えない状況に追い込まれている。日進にとって、富士自動車との提携は今後も不可欠と考えているフシは感じられない。木崎副社長は「今なら、AMWとの提携を模索できるチャンスではないか」と真顔でぶつけてきた。

日進自動車の呪縛から逃れたいーー 富士自動車の長年の夢だ。1968年、メインバンクが日進自動車と同じ日本産業銀行だったこともあって資本提携した。以後、日本産業銀行と日進自動車が交互に社長を送り込む繰り返しが続く。日進自動車は子会社同様に扱い、乗用車の委託生産などの協業があるが長期の経営戦略を描こうともしない。日本産業銀行出身の社長は自らの夢を果たそうと実力以上のことに挑む。しかも、日進と日本産業銀の社長経験者は互いに裏で足を引っ張り合う。得意の4WD技術を売り物にしたクルマが結果として2000年代以降に人気を集めているSUVを先取りする形でヒットしたおかげで経営はなんとか凌いできたが、リコールなどの不正事件の発生で経営責任が曖昧になるなど日進ー日本産業銀主導の経営に対する不満と不信は社内に充満していた。

その場しのぎの経営を続けながら、1990年台後半に始まった世界の自動車再編劇を富士自動車は迎えていた。木崎副社長は今こそ挑む時と覚悟を決めたようだった。彼の思いを改めて確認しながら、自分の頭の中では「ドイツ自動車がオンダを買収したいと考えていた。フランスのルソー自動車は織田自動車に身売りの話を持ちかけている。AMWもかつて創業家が株式売却を商社を通じて打診していた」が駆け巡った。「木崎さんが本気のようなので、私のネットワークで感触を探ります。途中で梯子を外すようなことをしないと誓ってくれるなら、欧州の自動車メーカーにルートを持つ人間にあたってみますよ」と答えた。すぐに私は元織田自動車のドイツ自動車の日本法人代表の吉田秀夫さんに連絡した。欧州の自動車事情に詳しい吉田さんの目は落とし所を冷静に予測しながらも、おもしろいことが出来そうだと受け止めたようだった。「AMWは今、息を吹き返して日本車と提携しようという気持ちはないと思う。とりあえず木崎さんにお会いできるようセットしてくれないか」。

一ヶ月後、富士自動車本社に近い東京・新宿のホテルの一室を予約した。約束の午後一時を待たずに、木崎さんが訪れた。私からは「今日の話を口外するような人物じゃないので素直に話し合って欲しい。欧州の自動車メーカーの経営状況も含めて新しいパートナーとしてどこが理想なのかを考えるきっかけになれば良いと考えている。AMW一筋で話を進めようと思っても始まらない」と事前に話していた。それから二十分ほど遅れて吉田さんが到着した。「すいません、車が渋滞にハマっちゃって」と謝るが、相手を待たせて胸の内を探る高等戦術とみた。吉田さんはドイツ自動車との関係を務めながらも、気分は独立した経営コンサルタント。私も野心あふれる気質からドイツ自動車の日本法人代表を長く居座るわけがないと考えていたので、「どんどんやってください」と応援していた。

「まずは木崎さんからお考えを率直にお話しください」と私から誘った。木崎副社長は日進との提携関係が思ったような効果を引き出せない歴史を説明した後、富士自動車の技術優位性を世界の自動車産業の視点から訴えた。「うちのクルマの個性なら、ドイツのAMWのブランドと相乗効果を引き出せる」と強調した。吉田さんは世界の自動車メーカーの内情を熟知しているだけに、「富士自動車のブランドはAMWと組み合わせが良いと思えないなあ。AMWはかつての高速性能を重視したマーケティングからより高級クラスへシフトしています。富士のブランドはAMWに比べ所得層が低い。車種構成が補完し合う関係になると判断するかどうか」と可能性はあまり高くないとしながらも、一度打診すると約束した。正直、私もこんな落とし所かなという感想でした。

三ヶ月ほど過ぎた頃、吉田さんから連絡がきた。やはりAMWは富士に興味はないとの回答だった。これからあとが傑作だった。「AMWはダメだと思ったから、ドイツ自動車の親しい幹部にどう思うと聞いたら、関心がとてもあると言っていた。ドイツ自動車で話を進めてみないか」と提携相手の変更を勧めた。『ドイツ自動車?そういえばオンダの買収を提案していたなあ、1986年のフランクフルトモーターショーで4WDで新しいシステムを発表していたなあ」確かに富士自動車はAMWを憧れる気持ちはわかるが、ブランドの格が違うのも事実。当時のAMWは操縦安定性で優れた高級乗用車をブランド化する戦略を選んでおり、大衆車に顧客層を持つ富士自動車を手に入れてもメリットは少ない。もっとも2010年以降、AMWが世界のSUVブームに出遅れる形で4WD車にシフトしたことを考えると、あの時に富士自動車を傘下に収めていたらSUV市場で苦戦する今のAMWと違った姿になっていただろう。これも振り返っての話だ。

一方、ドイツ自動車はAMWに比べて経営体力、技術力に余裕がある。もともとアウトドアに強い車種を揃えているだけに、富士自動車を傘下に収めるメリットはわかりやすい。日本車の優れたコストダウンの技術を割安に手に入る。車種構成を考えても、裾野がきれいに整う。富士自動車ならオンダよりも安く買える。誰でも理解できる計算だ。

ここでルソー自動車の身売り話が波乱要因として浮上してくる。織田自動車に持っていたものの、織田は買収しないまでも資本提携にとどめたとしてもメリットがないと判断していた。しかし、欧州との自動車摩擦や政治的な配慮もあって、すっぱりと断ることはできない。ルソーとの交渉は時間稼ぎしながら、提携しても傷が浅い手法がないかを検討していた。その奇策はなんと織田グループの神奈川自動車工業からの資本参加だった。神奈川自動車工業は織田グループの中で乗用車やバスなどを委託生産していたが、優れた生産技術を持っていることから織田の中でも車体デザインや高級車を生産していた。個性的な欧州車の生産にはうってつけの会社だった。聞いた私も妙手だと感心した。

ところが、待ちぼうけを食ったルノーは密かに富士自動車に持ちかけた。技術力や経営規模を考えると、提携効果はあると踏んだ。しかし、富士自動車は同じような顧客層を抱えるルノーと組んでも規模が大きくなるだけで、経営の主導権争いなどを想定すればなんのメリットもない。日進自動車との資本提携の二の舞を演じるだけだ。

ここで誰もが気づくはず。どうして富士自動車よりも世界の日進自動車をパートナーとして検討しないのか?日進の経営が危ういのはルソーも重々知っている。日進には目もくれず、織田自動車がダメなら富士自動車へと走ったのが実情だ。日進の経営危機の深刻度合いは世界の自動車メーカーが水面下で共有しているかのようだった。皮肉にもその日進と提携効果を十分に活かせないでいた富士自動車は世界の自動車メーカーから引っ張りだこ。その後もドイツ自動車、ルソー自動車につづき、US自動車、ヘンリー自動車も買い手として手を上げる。

日進自動車は置いてきぼりだった。

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