
ホンダが消える67 もし入交昭一郎社長だったら、NVIDIA救済のように・・
久しぶりに入交昭一郎氏をお見かけしました。世界が注目するNVIDIA創業者のジェスン・ファンCEOと東京・秋葉原で開催したイベントで熱い抱擁を交わしました。こんなに厚く深い親交があったなんて知りませんでした。
話は30年以上も遡ります。ファン氏は1993年のNVIDIA創業後、セガからゲーム機用半導体の開発を請け負いましたが、失敗。このままでは倒産する窮地に追い込まれたため、開発失敗を棚上げて当時のセガ副社長の入交氏に追加出資を依頼。入交氏は率直に失敗を認め、なお技術を追求するファン氏の誠実な姿勢に将来性を見い抜き、「あなたは好きな若者だから」と言って救済を決断しました。
「あなたは好きな若者だから」と救済
世界一の時価総額となったNVIDIA。もし、入交氏の決断がなければ消えていたかもしれません。ファンは「入交さんから友情、パートナーシップ、お互いを助け合うことが重要」を教えてもらったと話していますが、2人の深い親交を讃える美談を超え、世界産業史に記録される伝説になるでしょう。
「たられば」を言い始めたら、キリがないことは承知しています。でも、実際に目撃したかったという思いが時々、蘇ることがあります。1990年代、ホンダ社長に入交昭一郎氏が就任していたら、2020年代のホンダはどんな企業になっていたのだろうか。
1990年、4代目の社長に川本信彦氏が就任しました。下馬評は川本氏と同期の入交昭一郎氏が競い合い、大学院卒の川本氏が入交氏より年齢が上回っていたこともあって、入交氏こそトヨタ自動車や日産自動車とは全く異なる「ホンダ」の新しいシンボルと期待する声が高まっていました。
将来の社長候補と持て囃される
なにしろ、入交氏の経歴はピッカピッカ。東大工学部卒業後、本田宗一郎氏に憧れて「ホンダで飛行機を創りたい」と入社。ホンダが世界最高峰のF1レースに参戦した時は、心臓部のエンジン開発を担当。39歳で取締役に就任し「将来のホンダ社長」と持て囃されます。
1984年、米オハイオ工場の社長に就任。ホンダにとって米国市場は日本を上回る収益の大黒柱。トヨタ自動車、日産自動車に先駆けて現地生産を開始していましたが、米国最強の労働組合UAWの反発が強く、細かい工程管理まで求める日本的経営を現地の米国社員に定着できるかどうか入交氏の経営手腕が注目されていました。
持って生まれたカリスマ性なのでしょうか。現地従業員の目の前に登場する演出が振るっていました。F1の爆音を響かせながら、運転席から出てきたのです。拍手喝采を浴びながら、従業員の心を掴みます。米国の自動車業界でもファンが増え、米自動車専門紙が毎年選ぶオールスター経営者にも選出されました。
当時のオハイオ工場を訪れて入交氏と会い、取材したことがあります。「入交教」とまで言われるほど絶大なリーダーシップが隅々に伝わっており、入交氏は日本、米国に囚われず、ホンダの経営をどう伝え、進化させるかに腐心していたのが印象的でした。インタビューの後、「ホンダの伝道師」という言葉が浮かんだほど。
日本の本社に戻っても「イリさん」と呼ばれ、通勤は二輪車。まるでトム・クルーズの「トップガン」。今思い出しても格好良いです。改めて振り返ると、入交氏は本田宗一郎氏が思い描いたホンダを体現しているというより、入交氏が本田宗一郎を超える「新しいホンダ」を創り上げようとしていたのかもしれません。
1990年、久米是志社長が指名したのは川本氏でした。経営を巡る意見の相違など様々な理由が飛び交いましたが、要は両雄並び立たず。1992年に入交氏は副社長を辞任。その後、米国自動車業界でスター経営者に選ばれた知名度と評価からGMなどから招かれましたが、93年6月にセガ副社長に就任しました。
入交氏なら新しいホンダを創造できたかも
上場来初の巨額赤字を計上したホンダは、前進するためにどうハンドルを切り、ギアチェンジすれば良いのか迷い、自信喪失に陥っています。なんと本田宗一郎という偉大な創業者を超え、新しいホンダを創造したいと挑戦しますが、歴代の経営者が空回りするばかりですから社内の人心がばらばらになるのは当たり前です。現在の三部敏弘社長が力不足かどうかはともなく、入交氏なら「君らを信じている。失敗を恐れるな」と励まし、ホンダの未来を創造したのではないでしょうか。
秋葉原のイベントで入交氏とファン氏は並んで写真を撮りましたが、実は「未来のホンダのあるべき姿」だったのかもしれません。
最後に余計なことですが、川本氏を批判するわけではありません。むしろ、川本氏とはとても親しく、「ヒトラー」など批判を浴びながらもホンダの経営改革を断行したホンダ社長として高く評価しています。現在のホンダの惨状を眺めていると一度、時計の針を巻き戻してみたかっただけです。

