アフリカ土産物語(19)スーダンのビンラディン 専制国家で足跡追う

 2001年の米同時多発テロ「9・11」には度肝を抜かれた。ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)に旅客機が突っ込むテレビ画像は「映画か」と思った。首謀者として国際テロ組織「アルカイダ」指導者の故オサマ・ビンラディン容疑者の名が浮上し、1990年代前半に彼が滞在したスーダンの首都ハルツームで足跡を追った。

ハルツームでの足跡を追う
 「今世紀最悪の悲劇が起きてしまった」と戦慄した。約3000人もが犠牲となったのだ。ビンラディン容疑者がいた場所を特定し、関係が取り沙汰されたスーダンのバシール政権の要人にインタビューし、あわよくば資金の動きを探れ――。東京から取材の指令があった。

青ナイルと白ナイルが合流する

 テロから2カ月後、11月の首都ハルツームはカンカン照りだった。頭に白布を巻いた褐色の肌の男たちが砂塵の舞う路地を往来する。砂漠のような熱気が冷めた夕刻、ナイル河畔に出ると、青ナイルと白ナイルが合流する川面にモスクのシルエットが浮かんだ。

 ふだんから治安の悪い国では強盗に襲われないか、背中の気配に神経をとがらせた。だが、クーデターで1989年に成立した軍事政権国家では凶悪犯ではなく、監視の目を持つ人影が背後にいないか常に気になり、カメラを隠して小刻みに移動した。

化学兵器製造を疑う米国のミサイルに直撃されたハルツームの工場跡地

 「ヤツの立ち回り先がわかった」。ある情報通からのささやきでアジトが割れた。青ナイルの流れに近い、サトウキビの緑と赤茶けた土の風景が続く街はずれ。案内されたのは人の気配のない無人小屋だった。「ビンラディンは何度か来ていた」と近所の人が証言した。

ビンラディン容疑者の立ち回り先

ビンラディン容疑者が軍事訓練をしていた」とされる建物

 「彼が軍事訓練をしていた場所がある」との証言も得られた。現場を訪ねると、2階建ての学校の校舎のような鉄筋コンクリートの建物だった。「政府が監視しているから近寄らないで」。案内役の農民の顔に緊張が走り、距離を詰めず素通りを装いながら隠し撮りした。

「ビジネスマンとして来た」と情報大臣は釈明

 その間にインタビューした情報大臣は「ビンラディンはビジネスマンとして来た。サウジアラビアと米国の要請で国外に出てもらった。不法行為の証拠はなかった」と釈明した。

 私の滞在先は街の中心にあるギリシャ人が経営する小さなホテルだ。私が来る何日か前まで、探検家の関野吉晴さんが滞在していたと聞いた。人類発祥の地アフリカを起点に祖先の足跡をたどる「グレートジャーニー」に挑んでいたのだ。

「称賛はしないが、アメリカと戦った英雄」と修理工は真顔で言う

 だが私は探検家でもなければ政治学者でもない。「あなたにとってビンラディンとは何者か」。旧市街を歩いて市井の人たちの声を聞き回った。町工場が密集する地区の作業所でのこと。修理工たちが「彼の寄付で多くの病院や学校ができた」とささやき、「テロを称賛するわけじゃないが、彼は自己中心で独善的なアメリカと闘った英雄だ」と真顔で言った。

「英雄」と見る人もいたビンラディン容疑者の似顔絵

 ふと、室内のガラス戸を見ると、鉛筆で描いたビンラディン容疑者の似顔絵が張られていた。「テロの温床」という言葉がリアルな実感をもって胸に響いたが、仮に土産として頂けても辞退しただろう。貴重な資料だが、見つかればやっかいなことになるからだ。

ハルツームの夕暮れ

 それから9年半後の2011年5月、米特殊部隊によりビンラディン容疑者はパキスタンの潜伏先で殺害され、当時ナンバー2だった後継指導者のザワヒリ容疑者は2022年夏、アフガニスタンで米軍無人機の攻撃で殺害されたのである。(城島徹)

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