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プリウス

奥田碩さんはトヨタ第3の創業者 世界一への覚悟と強さを注入、環境経営も拓く

 奥田碩さんをトヨタ自動車の第3の創業者と呼んだらに驚きますか。1985年から40年以上、日本経済新聞の記者としてトヨタ自動車を取材してきましたが、歴代の経営者を改めて眺め直すと、トヨタ自動車には創業者が3人いたと思います。

 1人目はもちろん、豊田喜一郎さん。祖業の豊田自動織機製作所から自動車部を独立させ、トヨタ自動車工業を創業しました。技術者として優秀だったのでしょうが、残念ながら経営者の力量はどうか。

 石田退三さんは中興の祖

 1950年代、トヨタ自動車工業は経営危機に陥ったものの、喜一郎社長は激しい労働争議をまとめ切れずに退任。代わって社長就任した石田退三さんは無駄を徹底的に省き、「自分の城は自分で守る」を貫くトヨタ経営の原型を構築しました。自前の豊富な資金力から「トヨタ銀行」の異名もつけられましたが、「クラウン」などヒット車を送り出し、息を吹き返します。

 石田氏は「中興の祖」と呼ばれていますが、その後も創業家を支える「大番頭」として花井正八氏、辻源太郎氏、大島疆氏ら優れた経営者が続き、トヨタの経営を盤石にしました。

 神谷正太郎さんも見逃すわけにはいきません。経営危機で分離した販売部門であるトヨタ自動車販売の初代社長として今も日本国内を圧倒するディーラー網を構築しました。石油資源開発に手を出すなど「山師」の才もあっただけあって、質実剛健を貫くトヨタ自動車工業とは全く異なる多士済々の人材を育て上げます。奥田碩氏もその1人です。

 それでは第2の創業者は誰か。豊田英二さんです。トヨタを先駆に日本車メーカーは米国市場で好調に販売を増やしていたものの、米国車のシェアを蹴散らすだけに貿易摩擦に発展。1980年代には米国の巨額赤字を招いた日本車の輸出は過激な日本批判を招き、日米最大の政治経済の問題となっていました。

 輸出するだけでは米国現地の批判は高まるだけ。GMやフォードなどと同様、米国で生産した車を米国で販売して米国に利益を還元する。今の言葉で言えば「ウィン・ウィン」の関係を構築しなければ、いつかは米国市場から締め出されてしまう。ホンダや日産自動車はいち早く、米国現地生産を決断していましたが、トヨタは大きく遅れをとっていました。「自分の城は自分で守る」、言い換えれば日本の工場で生産して最高品質を守るトヨタの誇りが、トヨタを「日本に閉じこもる内弁慶」にしていました。

第2は豊田英二さん

 豊田英二さんは決断します。1982年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併を決断し、新たなトヨタ創造に突っ走ります。

 2年後の84年には世界最大の自動車メーカーだったGMと合弁生産に踏み切り、トヨタの内なる厚い壁を打ち崩します。「競争と強調」を唱え、トヨタ経営の原型である「自分の城は自分で守る」を修正。全米最強の労働組合UAWに縛られたGMはトヨタとの合弁生産を通じて生産効率が高いトヨタのカンバン方式を学ぶ一方、トヨタは現地生産に必要な労働事情などの理解に努めました。

 翌年の85年には米国ケンタッキー州に米国初めての工場建設を決定します。状況を的確に判断しながら、決断するトヨタ流を堅持しながらも、変革と進化を同時に実践する。どうみても、豊田英二さんはトヨタの第2創業者です。

 第3の創業者である奥田碩さんは、豊田英二さんが強いた世界戦略をさらに進化させ、「世界一」のトヨタになるための覚悟と強さを注入しました。

 トヨタを世界一にする。この自信はトヨタ自販で培われました。「販売の神様」と呼ばれたトヨタ自販初代社長の神谷正太郎さんの薫陶を受け、1980年代には世界市場に精通し、欧米、アジアでの市場シェア拡大の現場には常に奥田さんの姿がありました。

 祖父が相場師という”家柄”もあって、若い頃からギャンブルは大好き。養われた勝負勘は規律を最優先するトヨタ自工育ちの創業家出身の豊田章一郎さんにはトヨタの未来を託す魅力に映ったのでしょう。実弟の達郎さんが病気で社長を退任した直後に奥田碩さんを後継に選んだのも頷けます。1990年代に入ってトヨタは欧米の自動車メーカーに肩を並べたものの、次代のトヨタをどう描くのかに悩み、欧米からは「拡大するだけのトヨタ」との非難が広がっていました。

 奥田社長の選択は名実ともに世界一のメーカーになることでした。まず最大の輸出先である米国では次々と工場を増設し、今ではGM、フォードなど米国車に続く第4位の生産台数を誇ります。米国で多くの雇用を創出し、全国各地に収益を還元すれあ、政治・経済での存在感が拡大、1980年代の貿易摩擦の再燃を防ぐことができます。

 語学が得意なことがあって、海外の自動車メーカーや政治家などとのコミュニーケーションは問題ありません。日本でも経団連会長に就任し、日経連との統合など経済界でリーダーシップを発揮します。

赤字の「プリウス」発売を決断

 なによりも、最も優れた業績は「環境にやさしい自動車」を実用化したことでしょう。1997年12月、世界で初めてエンジンと電気モーターを併用するハイブリッド車「プリウス」を発売しました。自動車産業は大量の排ガスを撒き散らす環境を悪化させると批判されていましたが、「プリウス」の誕生で「環境保全に貢献する」イメージに一新しました。自動車メーカーは環境経営のトップを走る尊敬される立場になったのです。

 決断は簡単ではありませんでした。初代プリウスは生産効率が悪く、ヒットしても大赤字を生む車でした。豊田英二さんの後押しもありましたが、巨額赤字を覚悟してでもトヨタを「環境にやさしい企業」に転じた決断は高く評価されます。企業経営が最優先すべき経営課題として「環境」であることを国内外に示した功績はとても大きい。

 奥田碩さんが退任してからしばらく経た2009年に社長就任した創業家の豊田章男さんは、リーマンショック後に襲われた巨額赤字の背景には奥田さんの拡大路線があったと批判しました。米国で「プリウス」の大量リコール騒動に巻き込まれたこともあり、批判したくなる気持ちが湧いたのでしょう。

 もっとも、リーマンショックは世界の経営者誰も予想できなかった経済事件です。「プリウス」大量リコールも米国であまりにも存在が大きくなったトヨタ潰しの一環で、米政府は技術的な欠陥を最終的に認めていません。

 むしろ、トヨタがハイブリッド車を中心に世界で5兆円の利益を稼ぎ、今も世界一の自動車メーカーの地位を守り続けている事実をどう理解するのかが大事でしょう。

 やっぱり、奥田碩さんは第3の創業者と思いませんか。

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