MAZDA3 昭和から始まったトヨタとの提携への道 「広島の工場は残す」

  マツダは2017年8月、トヨタ自動車との資本提携を発表しました。500億円相当の株式を相互に持ち合います。2年前の2015年5月に業務提携しており、両社の協業関係を一段と深める意思表示が狙いです。この2年間はお試し期間というか、交際してお互いを信頼できるかどうかを確認したようなものです。

マツダとトヨタは2年間、相互信頼を確認

 マツダにとってトヨタに飲み込まれるかどうかを探る時間が必要でした。経営体力は相変わらず脆弱で今後の自動車産業の荒波を乗り越えられるかどうか。周囲に不安視されながらも、どんな苦境でも「創りたいクルマを開発する」自主路線を貫きたいマツダです。「トヨタの手助け」は必要と頭で理解しながらも、お互いの距離間を定めたいマツダの気持ちを無視するわけにはいきませんでした。

 まるで昭和のお見合いを彷彿させるかもしれません。そうなんです、経産省が昭和時代から水面下でマツダの背中を押し続けてきた仲人役を果たしたのですから。経産省、当時の通産省は日本の自動車メーカーが大手だけでも10社を超えており、欧米との国際競争を念頭に再編・統合を進める必要があると考えていました。フォードと資本提携しているとはいえ、マツダが生き残るのは難しいと判断。早い段階から最終的にはトヨタの傘下に収まるしかないと考えていました。

 繰り返しになりますが、ロータリーエンジンの開発を通じて天国と地獄を見たマツダは1979年のフォードとの資本提携をてこに経営拡大路線に再び走り出します。1981年、「オートラマ」という名の新たな販売系列を構築してマツダ製フォードブランドを販売します。1984年はさらにアクセルを踏み込みます。5月には社名を東洋工業からマツダに変更、11月にはロータリーエンジン開発のリーダーだった山本健一さんが社長に就任。そして米国工場の建設も決めます。ロータリーエンジンの挫折にめげず、山本社長はマツダの夢実現に向けてアクセルを踏み続けます。「ルーチェ」のモデルちゃん時発表の時に強調していた「技術者は褒めくれなきゃ良い仕事できないだよ」を実践します。

 さらにギアシフトを引き上げようとした翌年の1985年9月、プラザ合意が待ち受けていました。ドル円の為替相場は一気に円高へシフトします。米国を軸に輸出比率が6割を超えるマツダは収益に大打撃を受け、拡大路線にブレーキがかかります。そこにトヨタが国内シェア50%獲得をめざす「T-50」販売攻勢をかけた結果、マツダなど中堅以下の国内販売は一段と悪化。エンスト寸前にまで追い込まれました。余談ですが、豊田英二会長は「一度はシェア50%を取ってみようと試みたら、できたよ」と笑ったのを覚えています。当時のトヨタが本気を出したら、ライバルは敵いません。

拡大路線の頓挫が通産省が仕掛ける伏線に

 通産省が仕掛ける”好機”が訪れました。1987年12月、山本健一社長は会長へ退き、通産省出身の古田徳昌専務が社長に就任します。すぐ脇にはメインバンクの住友銀行出身の和田淑弘副社長が構えています。代表権を3人が保有するトロイカ体制の誕生です。しかし、山本さんに事実上権限はありません。古田さんは通産省貿易局長から電源開発理事を経て2年前にマツダへ移りましたが、まさか社長に就任するとは思ってもいませんでした。「えっ、社長やるの?」と驚いていたのを記憶しています。といって住友銀行は財務面で全面支援するとはいえ、マツダの経営戦略の全責任を負うつもりはありません。トロイカ体制にありがちな責任の所在が不明朗なまま、通産省の仕掛けが始まります。

 古田社長の下で出来上がった戦略はまさに大風呂敷でした。1988年に発表した計画は、円高で採算が悪化した輸出の減少を補うため、国内の販売台数をほぼ倍増し、シェア10%をめざそうというものでした。販売網は3系列から「ユーノス」「オートザム」を加え、5系列に増やします。トヨタや日産自動車と同じ5チャンネル体制に拡大するのです。販売するタマを増やすため、おもちゃ箱をひっくり返したような新車が相次いで登場します。今では世界的な名車となった「ユーノス・ロードスター」が誕生したのもこの時です。クルマ好きには楽しかったですが、実際に売れるかどうかは全く別の話です。結果は案の定です。

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