南太平洋9 パプア・ニューギニア ラバウルで日本とニホンを感じる(長い前口上から)

 ラバウル ーー パプア・ニューギニアと言われても全然イメージがわかない人が多いと思います。地球儀をかざしても赤道直下の大きな島国を見つけることができます。昭和生まれの世代には「ラバウル」という響きに何かしらの感傷を覚えませんか。私は軍歌「ラバウル海軍航空隊」が浮かび、零戦や一式陸攻などの航空機がすぐに連想されます。

 といってもプラモデルの飛行機です。小学生の頃、田宮模型を買ってもらい、組み立てに熱中していました。シンナーやラッカーなど塗料を使って色付けして完成品を部屋に並べて悦にいっていたものでした。部屋は備品のシールや部品が飛んでしまわないよう窓は締め放し。おかげで部屋はシンナーやラッカーの臭いプンプン。当時、シンナー遊びが社会問題化していたので、模型店では保護者が同伴しないとシンナーなどを売ってくれない時代です。母親が心配したのは当然でした。そんな稚拙なイメージを抱えて、ラバウルへの思いを膨らましていたのでした。

第二次大戦の激戦地に関するプラスチック製の知識

 パプア・ニューギニアは第二次世界大戦で日米が衝突した激戦地です。日米の兵士・軍関係者、現地の住民が多数亡くなっています。日本兵の場合、戦闘で亡くなるよりも過酷な気候と食糧不足で餓死や病死が原因が大半でした。軍事や食料の補給など兵站線を無視したのが主因で、インドネシア半島で展開されたインパール作戦と並ぶ無謀な日本軍の作戦事例のひとつです。

 「ゲゲゲの鬼太郎」などで著名な水木しげるさんはラバウルに出兵した後の戦闘で片腕を失い、現地の住民に助けられて日本に帰国しました。兵隊時代の悲惨なエピソードを多くの作品で描かれているので、パプア・ニューギニアといえば水木しげるさんを思い浮かべるかもしれません。

 プラ模型の戦闘機や戦艦・航空母艦などを眺めてうっとりしていた少年時代を過ごしていた私です。山本五十六連合司令官、零戦などで様々なイメージで思い浮かぶのですが、所詮は書籍と模型の世界です。あのラバウルをこの目で見てみたい。パプア・ニューギニアに出張する機会を見つけたら、いの一番に行こうと考えていた目的地でした。

 これから書くことはもう27年ぐらい前のことです。昔話です。現在の風景や空気と大きく異なっているはずです。それでも書こうと決めたのは、パプア・ニューギニアはじめ南太平洋の島国に関する情報があまりにも少なく、知られていないからです。最近の地球温暖化で海面上昇などの危機にさらされる島嶼国の声が伝わることがあっても、それは一部に過ぎません。過去にどんな歴史があったのか、そして多くの人々が生活している日常が日本に伝えられる機会はまだまだわずかです。何の足しにもなりませんが四半世紀も昔の話をきっかけにパプア・ニューギニア、そして赤道直下の世界に思いを馳せて欲しいです。

遠くて近い祖先の故郷かも

 実はそんなに縁遠い話ではないのです。日本人の祖先の一部はマレー半島、パプア・ニューギニア、ポリネシアの島々などを渡って北上しているはずです。ポリネシアを飛び回った私から見ると、日本に居ながら「あれ、サモアで会った人と似ている」などとその島々の人を思い出させてくれる人物に出会うことが今でもたびたびあります。

 身近な実例です。テレビ番組制作で一緒にニュージーランドに向かったカメラクルーの一人が入国手続きで手間取ったことがありました。小一時間、姿を現しません。ようやく手続きを終えてきた彼に尋ねました。「何が問題だったの?」彼は苦笑します。「空港でお前の家族が待っているんだろう。何か隠して持っているんじゃないのか?」としつこく聞かれたと明かします。彼の顔、背格好はマオリの人たちとかなり似ています。

 入国審査の職員は日本人のふりをしてニュージーランドに戻ってきたので、何かあると勘違いしたようでした。実際、南太平洋の人たちと親しくなると、生活習慣や気質がとても似ていることに気づくはずです。皆さんも自分自身と似た外観やクセなどを知ると、自分の祖先はここから来たのかな?遠い遠い親戚がいると勘違いするかも、です。

 ようやく本線のラバウルに戻ります。さてどうやってパプア・ニューギニアへ行くか。新聞読者の皆さんは米国、中国、韓国、欧州には強い関心を持っているので、新聞社の編集デスクも視線はそちらへ向きます。パプア・ニューギニアについては、地震や火山など大災害の影響などを取り上げることがあって政治・経済をまともに取り上げる機会は非常に少ないのです。何かしらの仕掛けが必要でした。思いついたのが同国首相を他社と共同取材することでした。

 ちょうど南太平洋の島嶼国が参加する国際会議がパプア・ニューギニアで開催されます。台湾が強い影響を持つ南太平洋地域で中国が外交攻勢をかけており、日本や米国が安全保障上のパワーバランスに変調が起こらないよう舞台裏で動き始めている時期でした。他のメディアが行くとなれば、自社だけ”特ダネ”がオチるのはたとえパプア・ニューギニアの案件でも本社デスクとしても嫌です。こんな楽屋落ちを書くのも、それだけ南太平洋の島嶼国を日本の読者に関心を持ってもらうのが難しいことを知ってもらいたいからです。今でもそうかもしれませんが・・・。

 それはともかく首相の共同取材で首都ポートモレスビーに向かいます。会見を終えた翌日、内閣府の広報担当者とともにラバウルへ赴く予定を組みました。

30年近い前のポートモレスビー

首相会見の前に軽いカルチャーショックのパンチを、この後にもっと

ラバウルに入る前に取材する首相には驚いてしまったことがあります。共同会見の日時に首相官邸に向かったのですが、当の首相が姿を現しません。広報担当はさほど慌てていません。が、こちらは慌ててます。記事を配信することを考えていますからね。「何時になったら姿を現すのか」と聞いても「わからない」の繰り返しです。

 一国の首相の日程です。危機管理を考えてもおかしいです。何度か問い詰めると広報担当は空を見上げて言います。「どうも奥さんのところにいるようだ」と明かします。「それなら、奥さんに電話すれば良いんじゃないのか?」と返します。ところが「それがわからないんだ。どの奥さんの家にいるのか」。思わず「えっ」。「妻が5人ほどいるようで、その家にいるかはわからない」と広報担当者。こちらは「・・・・・・」。取材は再度、日時の調整で無事終えることができました。ご本人は全く気にしていませんでした。

 予想もしないカルチャーショックで軽くパンチを食らった感じです。しかし、その後もパプア・ニューギニアから多くのパンチを受け続けます。それは日本が残した戦争の足跡の大きさとその事実を知らない自分の浅慮にです。翌日、ラバウル空港に飛び立ち、無事到着しました。

◆前段だけで長い原稿になりました。申し訳ありません。次回へ続きます。

 

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